エッセイ「原発銀座」から「2拠点生活」の前夜な日々に思う、根源的なこと(急なお知らせ含む)。吉田邦吉
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* 過酷な歴史と生き残りの英知
わたしはずっと双葉郡の大熊町という町で暮らしてきた。ここは江戸時代の大飢饉でひとびとが大勢ほとんど死滅したという過酷な歴史があるほど生きるのが容易でない土地柄であった。すでに江戸時代には一種の大災害があったといえよう。その生き残りがわたしたち古い人々だということになる。なぜ生き残れてきたのか今のところわたしは知らない。
たとえば蕎麦の実の長期保存の英知などはあったようだと震災後に天保蕎麦(てんぽうそば)の件で知った。江戸時代から大熊で保存されていて、震災後に民家で見つかった。その実を用いた地元出身の蕎麦は極めて美味かった。わたしの記憶によれば、専門家でもできなかったものを山形県の蕎麦職人の人達が復活させたように覚えている。
生きるのにたいへんな土地という意味あいで東北のチベットという呼び名があるほどの土地が双葉郡である(※青森は江戸後期の国学者で旅行家の菅江真澄(すがえますみ)の件でそうだろうしネット検索によれば岩手もそういう呼称があるようだ)。そう思うと、わたしがこうして存在していられるのはまことに先祖代々の死に物狂いの苦労があってのことなのだということがしみじみとする。
* 明治日本の帝都・昭和の戦争・高度経済成長・エネルギー・貧困
その後に双葉郡も戊辰戦争むろん太平洋戦争も経験していて、福島は、首都に穀物を送り届ける、食物エネルギーを生産する穀倉地帯であった(「東北」という地域が、首都のための穀倉地帯として気候や風土に稲作一辺倒が合っていたのかどうかは検証したり考える必要もあるような気もする)。
太平洋戦争その前の1930年代ごろ(昭和5年~)、いわゆる戦前には、東北農村の娘を「身売り」として送っていた。これは、二・二六事件という日本のクーデター事件の背景だと考えられている。2・26事件とは、1936年に旧日本陸軍青年将校らが政府要人を暗殺した事件である。東北農村は、世界恐慌や大凶作でかなり疲弊して貧しくなっていて、青年将校らは東北出身であり、その窮状を思っていたとされる。これがいかに大事件だったかは関係書籍を参照されたい。
そして1955年ごろから70年代後半(昭和30年前後から昭和50年代前半)にかけ、中学校卒つまり中卒のこどもたちが「金の卵」と呼ばれて大都会へ「集団就職」していき、日本の「高度経済成長」を支えていた一大・社会現象である。その人々は「団塊の世代(日本の1947年・昭和22年~1949年に生まれた約810万人)」に関係する。出発地と目的地は、東北から関東へという道のりがわたしたちの間では有名だが、たほう、沖縄や九州・四国から京阪神・中京方面もあることは留意すべきであろう。※「集団就職」そのものは戦前からあるようであり、1950年~1954年の「戦後復興期」にもあった。それぞれの言葉は本が何冊も出続けるほどの概念である。
集団就職をテーマとした歌もある。「あゝ上野駅」1964年(昭和39年)に出た演歌だ。作詞・関口義明、作曲・荒井英一、歌唱・井沢八郎。 東芝音楽工業(1964年盤)、東芝EMI(1976年盤)。
さらには戊辰戦争後1867年以降つまり、明治政府による強権的な開発の歴史もある(抜刀隊という軍歌などがある)。いつも開発だ。水力発電や道路づくりなどに会津藩士や地域そして全国のひとびとが重労働をしていた歴史であり、道路に関しては『ダークツーリズム・ジャパン2』(東邦出版)にわたしは寄稿した。この雑誌には、写真家の中筋純さん、ダークツーリズムの専門家である准教授の井出明さん、身体改造ジャーナリスト/フォトグラファーのケロッピー前田さん、そして哲学者の東浩紀さんも寄稿している。
* 原子力のエネルギー利用で原発銀座へ
そんなおり昭和後期になり、賛成と反対の分断・大論争を通り抜け、大熊町や双葉町はいつのまにか東電城下町とか原発銀座という別名がつくようになっていた(※双葉郡浪江町や旧小高町・現南相馬市小高区にも原子力発電所の建設予定はあった)。なお参考用に付しておきたいが、ウィキペディアの「福島第一原子力発電所」の項目には1958年に福島県庁が立地地域を調査していたと今は書かれている。金の卵たちが鉄道でどんぶらこと送られているころ、すでに計画されていたのである。
生きるのに大変な「不毛の土地」こそが「開発とエネルギーの最先端」に急激に変わったのだ。「核物質をクリーンに平和利用」ということで最新の発電技術がもたらされ生活が一変した人々もいた(そうでない人々もいた)。1973・1979年のオイル・ショック(石油危機)以降、「脱石油化」がさけばれたがゆえ、原子力やLNGなどによる「エネルギー利用の多様化」である(今では「脱原発が叫ばれたことによる再生エネルギーへの多様化」のほうが有名だろう。「反原発」という言葉のほうが古いかも分からない)。
「原発は弁当一個」(それだけで月給取りになれる)というような趣旨の言葉を団塊の世代のひとからわたしは聞いたことがある。つまり農村の場合には収入を得ようと思ったら大事に守られてきた田畑を年中苦労して維持しつづけて家屋や家畜もなければ生活がままならないという大きなセットが必要だが、原発の場合には最小限の身一つで所帯を持てるという意味あいだろう。たぶん、侵略した大戦での大敗北という負の精神性を抱えた日本人からすれば、ほとんど夢のような話であったに違いない。じっさい「あれは夢だったのか」と思わなくもないほどにはいまその風景は様変わりしてもいる。
古いひとの話によれば、いつの間にか6国(通称「ろっこく」、国道6号のこと)には良いクルマが走るようになっていたらしい。たしかに今でも大熊町には良いクルマが走っている。大熊だけではない。いわき市もそうである。双葉郡の南隣であるいわき市を少しクルマで走れば、メルセデス・ベンツ(Mercedes Benz)やボルボ(Volvo Cars)のお店が主だった通りに立っているのを見るぐらい。むろん軽トラのほうがたくさん走ってはいると思うが。原子力エネルギーが活性化して石油のクルマがさらに走るようになった。
ただ当然ながら今の社会の場合、ある地域に出身者の全員がまったく移動せず居続けるという社会が全員の希望で美徳だというわけでもない。出稼ぎもせず一生涯どこにも引越さずに暮らすことを選ぶのが「できるようにはなった」ということ。「職業や居場所を縛られないこと」は、日本国憲法(1946年・昭和21年公布)では22条1項で定められている。大日本帝国憲法(1889年・明治22年公布)でも、法律の範囲内においてだが、定められていた。
日本国憲法第22条第1項
何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
大日本帝国憲法第22条
日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ居住及移転ノ自由ヲ有ス
* 石炭時代のエネルギー利用
原発の話というと隠れがちかもしれないが、いわき市には炭鉱があり、かつてのエネルギー生産の中心地であった。それほど労働者が集住していたとも言える。当時を学べる建物は、いわき市常磐湯本町に行けばある(「いわき市石炭・化石館ほるる」)。温泉の歴史で有名な町だ。すなわち、いわき市には発電に関して大変な労働をしていた人達の歴史があるのであり、発電の歴史に関していわき市のほうが先輩なのである。江戸時代、幕末1856年に採掘が始まっている。
(炭焼きの歴史)
(なお「炭(すみ)」そのものの利用の歴史は日本全国で古いだろう。炭焼きについてわたしは雑誌WELTGEIST FUKUSHIMAから1冊の聞き書き、そして、会津民俗研究会で文章を出して、福島県立博物館で講演させてもらったこともある。ここでは触れるにとどめるが、これもひとびとの生活を支えていた重要なエネルギー生産のひとつであることは言うまでもない)
いわき市はまさに東北の玄関口地域のひとつであり、「1966年(昭和41年)10月1日、5市4町5村が対等合併し、日本一広い面積(合併当時-1,227.45k㎡)」として誕生した(下記ページ引用)。双葉郡の八カ町村(6町2村)や相馬郡飯舘村については3・11後よく知られているだろうから、ここではいわき市の旧・地区の図解を参考までに掲載しておきたいと思って検索したらこちらが出てきた。
出典『いわき市誕生の軌跡 14市町村合併後の記録』野地登久雄(インターネット上のページ)
昭和41年(1966年)というのは、常磐炭田史研究会のウェブサイトによれば、「いわき市」が誕生し、「常磐ハワイアンセンターが営業開始」して、新たな転換・発展への歩みをスタートしたときである。
さらに、昭和46年(1971年)には、いわき市の発行する「常磐炭田の歴史」によれば磐城礦業所(いわきこうぎょうしょ)が閉鎖され、約4700人が解雇されている。当時のニュースがネットで見れる。労働者のひとたちにいろいろあったようだった。
* 非核と核兵器廃絶の宣言都市群
いわき市は「非核平和都市宣言」というものが為されている。これに気づいたのは避難してからたくさん歩きだしてからで、会津若松市の役所にそう看板があったからだ(会津若松も「核兵器廃絶平和都市宣言」している)。わたしが最初の避難バス(わたしたちの分は足りなくて自衛隊のカーゴ車となった)に乗ったのは町内の公民館であり、その次に避難して到着したのは田村市である。田村市も「核兵器廃絶平和都市宣言」していた。検索してみれば主だった都市は県内でけっこうこの宣言をしている。
検索してみると日本非核宣言自治体協議会というのが広島県や長崎県の関係によりあるようだ。そのつながりで全国にたくさんあるのかもしれない。なお、ウィキペディアの「非核平和都市宣言」には、こうある。「日本で非核自治体の運動が始まったのは、全面核戦争の危機が高まった1981年の末、マンチェスター市から起こった英国の非核自治体の運動が上陸してから」(太字筆者)。
すなわち、あのどこでも見る看板のもとは、全面核戦争の危機を迎えたとき、イギリスでの運動が発端だったようだ。余談だが1981年と言えばわたしの生まれた年でもある。この歴史に詳しくないが、とりあえず全面核戦争にまでならなくてよかったのだろう。今から見れば40年ほど前のことである。約40年間、これら宣言の板は各地に建てられているのだろう。全面核戦争の危機からちょうどわたしの年齢とだいたい一致する。
そして「非核への反動」なのか、それとも、石炭や石油のCO2排出への反動での「クリーン」かどうかなのか知らないが、いずれにせよ「クリーンな原子力の平和利用」が、双葉郡大熊町と双葉町の看板である。その町を今や公害の歴史の大きな部分となり、「除染している」というのだから、歴史というのは何とも皮肉であり、養老孟司さんが仰るような、いきなり逆になる歴史であろう。つまり「Aであったことが、ある日突然に非Aとなる」もっと言えば「神国日本はいきなり人間宣言や民主主義の国になった」といったようなことになっているのとまるで同じである。16・17世紀イギリスのシェークスピア『マクベス(Macbeth)』でも言われている、「きれいはきたない、きたないはきれい」。「塞翁が馬」と言っても良い。相反する物事は実のところ同じところに居たり、表裏一体として同じ物事であったりする。
* 3・11後
2011年ある日3・11突然に、エネルギー先進大国で言わば「福島は爆発して廃炉と除染と再生エネの中心地」となり、かつ、「ロボットとデジタルの中心地としての福島」ともなっていった。ここはあらゆる負の課題をも発生させながら、人類のもつ科学技術についての先進地域でもある。まとめれば、公害と開発の先進地だと言えて、さらに抽象化すれば、マイナス・プラスの凝縮した土地とか、陰陽の土地だとも言えるだろう。それも、地球上から過去から縦横無尽に何事をも形成し続けていて、宇宙における「球体」には上も下も右も左もないのだが。
ゆえ、双葉郡を思考の中心とするわたしの「核の図式」はこうなった。
・双葉郡大熊町・双葉町 = 核・原子力の平和利用(クリーン)の町
・周辺都市群 = 非核・核兵器廃絶の平和都市
・福島第一原子力発電所 = 福島県と日本国
周辺の都市を歩いていると、核の平和利用を非核平和都市が囲んでいるのだ。核の有無ということをどちらも特色にしているように見えて、なんだか不思議な気分になった。とりあえず、町や市にはそういう境界があるが、住民や労働者らとしては境目を超えており、かつ、全国からひとびとはここ双葉郡の原発銀座に働きに来て居る。その点は3・11後も同じだ。
その電気の価格は労働や住民のリスク負担と比較して妥当なのだろうかとは思わなくもないが今さておき。とりあえず、その電気が送られている使わている場所の代表地である首都・東京はどうなっているだろう。たとえば、なんと新宿区が宣言をしていた。
『新宿区では、新宿区平和都市宣言の中の「すべての国の核兵器の廃絶を全世界に訴え、世界の恒久平和の実現」を目指し、平成21年4月1日に「平和首長会議」及び「日本非核宣言自治体協議会」に加盟しました。(引用「新宿区HP」)」
よく読むと、「核兵器廃絶」を宣言しつつ「非核」となっている。「非核」と「核兵器廃絶」は、平和利用を含むか含まないかで微妙に異なるのではないかとも思えるのだが、おそらく同じような使い方をされているのだろう。
3・11の後、わたしはこのような非核・有核に関する「3・11前の歴史の一側面」に、町を歩いていて気づいたのである。たいてい同じようなコースが多かったとはいえ、5年で15000kmも歩いたのだから、けっこういろいろなことに気づく。そのひとつがこれ「核の有無」であった。それで下手なりにもエネルギーの歴史をかいつまんで読んだりしていま感じている考えていることを書いている。正解か的確かは知らない。わたしが今そう読み取ってこう思ったということが今この文章の主眼だ。
* 政府による避難指示・解除その後のこと
いまわたしは、いわき市で主に暮らしている。いずれ大熊町の再生区域内にある実家の避難指示・立ち入り制限が解除されたら、自動的にわたしは形式上は避難していない大熊町民になる。そもそも避難しているときでも大熊町民というのは書類上なにも変わってない。でもいわき市に暮らしていて、実質的には避難生活が変わっておらず何も終わっていないとも言える。
おそらくこれは今すぐではないにしても、じきに、それぞれの状況や意識の問題になっていくだろう。本人がもう避難者でないと思えば、避難生活の「●●年」というカウントは終わりを迎える。本人がいやまだ避難生活と同じだろうと思えば避難者のまま年数がカウントされていく。
いろいろな状況があるから同じ大熊町民といっても千差万別であり、苦難の日々を過ごしているひとたちは多い。しかしいずれにせよ、わたしの暮らしていた大熊町にあるわたしの家は改築されてあれこれ少しずつ進み、最近やっと住めるようになってきたから、2拠点生活になる。だから「2拠点生活の●●年避難」者というステータスをわたしは春ごろに思いついた。いまは「2」拠点の「11」年避難だ。数字は変わり得る。
わたしは避難者ではあるが、とりあえず完全な帰還者でもなく完全な定住者でもない、そして今度は完全な避難者でもなくなり、かといって帰還者でもあり定住者でもある。それらをすべて包んだ考えが「2拠点生活11年避難者」という造語である。自分の状況をひとことで説明しえるステータスを考えることは自分というものを知り押さえておく点で重要だと思う。境界をまたぐひとびとだとも言える。
むろん全国から縦横無尽に来るひとびとの、いわば「逆でかせぎ」のような現象も注目すべきであろう。全国から田舎である双葉郡へ逆に出稼ぎに来るような時代になったのである。その原因はさておき、目的としては、仕事や何らかの活動だと思う。そんなことは、戦争の兵隊や金の卵であった一昔前には、まったく考えられない事であっただろう。
境界と言えば、わたしたちの発行するインディーズ雑誌『WELTGEIST FUKUSHIMA』では「境界を越える」というテーマの号もある。さかのぼれば、作家である岡映里さんの『境界の町で』(リトルモア)も思い出す(わたしも出ている)。さらに遡ればGQジャパンの矢作俊彦さんの一連の文章も思い出し、さらには、赤坂憲雄さんの異人論なども思い出す。つまりわたしにとって中心と周縁とか、内外とか、3・11の前と後とか、真ん中と東西南北とか、部分と全体とか、ボーダレスとか、戦前や戦後そして原発事故からの戦前回帰へ、境界を越える、その土地からわかってくること、という話題のことは、とても主要なモチーフのひとつなのである。今は書きとどめるにしておくが、いずれはさらなる考察を深めていけるものと思っている。
* モノとヒトの集まり
3・11の前も後も、核を中心として境界を跨いでくる日本の全国からの人々は、一応その恩恵に与(あずか)り、双葉郡の有名な国道を南北移動して出入りし東西移動もして、縦横無尽に張り巡らされていくものとひとの移動がある。それは日本人だけに限らないだろうとも推測されるから少し大きく見積もって人類という表現でも間違いではなさそうだ。そもそも日本は核物質を世界から輸入している。平和利用としての核を保有しているのだ。
全世界から核物質と人類が集まり、そして、日本全国から日本人も集まり、かつ、普通でない中心地という意味あいで超をつけると、大熊町と双葉町は、政治学的または民俗学的な地続きにもある「科学技術と環境倫理の超・世界的交流地域」なのである。しかもそれは、廃炉・除染中の今もそうなのだ。ぼんやりとしていて、その存在が当たり前すぎであった原子力発電所のイメージの正確さは実際こういう側面がありそうである。それが手に負えているのか負えていないのかはどちらにも解釈しえるだろう。
(※ちなみにわたしは物事の表裏・明暗やプラスマイナス、光と影・陰陽といった両面あることにつき、どちらかのみを論ずべきだとか見るべきだとか、悲しんでるだけ怒ってるだけがいいとか楽しんでるだけがいいとかふざけて遊んでいるだけがいいとか、そういうことは思っておらず、その論点については何度も何度も考えと執筆を重ねている。そのきっかけは赤坂憲雄さんの『震災考 2011.3 - 2014.2』(藤原書店、2014)であったと思う。それまでのわたしの文章的な思考は民俗学を知らずして郷土史的であった)
いまの浜街道である6号国道をクルマで行けば全国ナンバーの高級車も走っていれば、労働者たちの乗った全国ナンバーのクルマも走っている。ゆえに思う、「ここにいるのは、全国全世界の人類であり、わたしたちだけじゃない」のだが、一見すると避難区域だから町には誰もいないようにも見えるため「どこか閉ざされた遠くの福島のちょっとした市町村のこんな場所というイメージを持たれている」のではないか、と。それはそれで間違いでもないから物事というのは難しい。実際に立ち入り禁止であり閉鎖されているエリアがまだ大きいは大きい。
もっと言えば、戦中つまり太平洋戦争中、その終わりごろ、大日本帝国軍が核兵器を開発しようと核物質を福島県の石川町で中学生らに手掘りで採掘させていたという驚きの歴史もあり、石川町を実際に訪ねて『ダークツーリズム・ジャパン1』(ミリオン出版)にわたしは寄稿したことがある。石川町は魅力的な町でありぜひ一度は行かれたい。すばらしく牛肉が美味い。
* 日本人の精神性
思うに日本人は、「エネルギーや資源の枯渇」に常に悩まされ、(侵略されたほうの国々についてはむろんだがひとまず敗戦濃厚や戦後直後の当時の人々の知る状況としては)大日本帝国臣民たちの「膨大な数の死亡」という敗北を長々と見せつけられ、たとえば帝国陸軍は食べ物という資源エネルギーがなく餓死者がとても多く、最後には自ら「核兵器を開発」しようとしていたが逆転できず、むしろ「2度の核兵器つまり原子力爆弾(原爆)を落とされて負けた歴史」がある。
「食べ物の不足」や「エネルギーの不足」は、日本の歴史にとってというより、「日本人の精神性を形成するうえで、かなり深いものを刻み付けている」に違いない。その結果のひとつが、福島第一原子力発電所であり、その事故でもあり、その廃炉や除染でもあろう。よく原子力発電で使われている言葉「クリーン」の対義語は汚染だとは思うがとりあえずそういったことが、「『平和』利用だから」というその言葉に見え隠れする気がする。すなわち「悲願であるエネルギー核物質について、戦争の惨禍を超えて日本は、ついに獲得を達成したという思い」だ。
* いまのわたしが学んだこと
いま、わたしたちは、3・11から12年目、なにを獲得したのだろう。食べ物やエネルギーというのは、人類が生きていくうえで必須の条件であるこれらは「飢えや枯渇」が問題となり、人間同士の争いとなっている。世界中のどこでもがそうなのだ。「飢えるほど不足して他人の物を見る」というのは、戦争が起きることの根源的な問題でもあるのだろう。国家的に「有る所から分捕る」という考えの発露が戦争であろう。あらゆることがその解決へ向けて研究されていたりもする。
嫉妬や羨望(せんぼう)しての殺人事件というと、ユダヤ教やキリスト教などの聖書である『旧約聖書』(創世記)のカインが人類最初であるとコトバンクという辞書に出ている。
妬み(ねたみ)というとだいたい仏教では「三毒」のうちの1つにも数えられるだろう。コトバンクに三毒とは、「貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三つの煩悩」であり、言い換えれば「むさぼること、怒ること、理非のわからないことの三つ」だ、と出ている。
1,ひとつめは「トンヨク」(むさぼり)、それは「物欲・金銭欲・食欲が強く、手に入れたものではなかなか満足せず、さらに欲しがること。欲の深いこと。」(引用:コトバンク)
つまり、拙編著の書籍『フクシマ発』(現代書館)で書いたように、いま持っているもので満足できなかった人間たち全体としての強欲が、戦争や原発事故を起こしたと言えるのだろう。もし今ある物事で満足していれば、今ある物事について、大事故が起きるかもしれないという指摘があったとき、それをトップダウンで経営改善していくほうがリスクコントロールであり最終的な安全や長期的な利益という満足に適っている。強欲ではなく、だ。こうして、貪欲は、少なくとも日本人全体という抽象的な当事者や経営者トップらにとって原発事故の発生に関係している可能性がありえる。何度もトンヨクと使われていた歴史があるのだろう、いまでは「ドンヨク」と濁って読むほどなのか。
2,ふたつめ「シンニ」(怒り)は、会津ではとても有名な僧「徳一」の大乗仏教法相宗(ほっそうしゅう)おける唯識(ゆいしき)の教えだ。「唯識の教えでは,三毒の煩悩の一つとして修行者にとっての最大の障害とみている。六煩悩の一つ。自分の心にかなわないことに対し憎しみ憤る心作用のこと」(同引用)とされる。
これもなかなか難しいことである。現代の高度情報化社会において、だれしもが煩悶としていることではなかろうか。なにが許せない許せるといった、いわゆる政治的妥当性、ポリコレ、ポリティカル・コレクトネス、キャンセルカルチャーなどのことにも当てはまるだろう。怒りや憎しみが「正義」から発生して自己を縛り付け、さらにはそこに思考が年中はりつけにされてしまう現象のことだと思われる。SNSでのエコーチェンバーやフィルター・バブルなどに繋がる「炎上」問題にも通ずる。
これらは原発事故の後にこれでもかというほど繰り返してきた社会現象であり、必ずしもインターネット上だけでもないことは政治ニュースを知るひとびと周知のとおりだ。これに囚われると日常生活でもそれなりに重い負担にさえなりえる。一般の人々に限らず、大災害の被災者や原発事故の被害者だってこれに苦しんだ・苦しんでいる。つまり、3・11直後からずっと現在進行形のことですらありえる。怒りとは正しい正しくない怒りとは正常だとか怒りはコントロールすべきだとか、あらゆることが怒りに関していつも論議の種である。わたしとしてはもし怒りが起きれば解消したいことである。
3,みっつめは「ぐち」(理非のわからないこと)である。「愚癡とも書く。愚かなこと。原語は一般にサンスクリット語のモーハmohaがあてられ、莫迦(ばか)(のちに馬鹿)の語源とされている。仏教用語では、真理に暗く、無知なこと。道理に暗くて適確な判断を下せず、迷い悩む心の働きをいう。(略)また、心愚かにも、言ってもしかたのないことを言い立てることを、俗に「愚痴をこぼす」などと用いるようになった。」(同引用)
これもまた、なかなか難しいことである。一見すると簡単な道理のことを言っているように見える。しかしこれを1と2について当てはめれば、たちまちわたしたち人類の全員がまるでバカではないかと思えてくるではないか。
すなわち、戦争がよくないことや原発事故防止の怠慢がよくないことといった「かんたんな道理」すらわからず又は分かっていてもどうにもできず迷い苦しみ、危機感を覚えだして、しまいには「強欲」にも戦争略奪をしかけ、しまいには原発事故の防止を怠り、戦争や核物質の恩恵だけ受け続け、いまでも理非がわからなくなって「愚痴」をこぼしていたり「怒り憎んだり」しすぎて苦しんでいる日々もあるといったことだ。それは人間の歴史であり、だから仕方がないでもなかなか済ませられないことである。それでいて、では遊び呆(ほう)けていればいいのかという簡単なことでも当然ない。あまりに根源的なことなのである。現代最先端の地で表現されている発生事象は、いかにも人類にとって、本質的なことであった。
すくなくとも、これら3つの難しい「貪・瞋・痴(トン・ジン・チ)」については、なるべく自分を戒めるよう考えてはおきたい。それが最終的にはこころの平穏といったことに繋がり得るのだろうとも思いながら。
* 具体的に学んだことの案
いつか将来の世代へたくしたい世代間倫理の問題として、わたしは未来のひとびとに向かって、もっと現実具体的になにを獲得したと発表できるのだろう。たとえば法的なこと、たとえば憲法や人権に関してひとびとは知る機会でもあったかもしれないと同時に、その風化により忘れ去られる時期でもあるかもしれない。たとえば環境倫理的なこと、たとえば自然保護や防災減災や公害史的なことなどを学ぶ機会にもなるかもしれない。科学技術や自然哲学についての哲学を深められる機会にもなりえるだろう。それは人類の哲学的英知が古代より始まってからずっとのことに関係して、アリストテレス、デカルト、ニュートン、エジソン、テスラ、アイン・シュタインといった人々の話にもなりえていくだろう。
わたしはおそらく、3・11の艱難辛苦から何よりも直接的にまずは導き出すことが良いだろうと思われる。そうすると何かと思うに、傷つきと優しさという青春の誇りではないかと思ってもいるのである。なぜなら、そういうことを思う時、なんらかのつながりで苦労をともにした仲間たちの顔が浮かぶからだ。戦争体験者ときっと似ている部分があるのかもしれない。だがわたしがそこで終わると美化するなという言葉が飛んできそうではある。しかしかつてのわたしこそが怒りと悲しみに暮れた一時期があったのをひとは知っていることだろう。それに過去というものはどうしても良いことばっかりわたしの場合には覚えて居たくなる性格なのである。それ以外のことは、社会としては忘れないにしても、個人として思い出して考察するには、とても体力と時間がいることだ。そうしてさらに、さらに生きている限りずっと思考を突き進めることが物書きの本分でもある気がしていることを書いて、ひとまず終える。
写真は、大熊町のわたしの家のもと果樹園である。もう一連の除染作業のうちに含まれる伐採で、何もない。土が痩せている場合もある。ここは「原発銀座」から今は「廃炉銀座」となったのであり、だから課題は途方もなく山積している。わたしたちが生きている間に解決しえるのかわからないということもわたしたちの間では時おり話題になる。この何もないと言われる縄文・東北のひとすみに現代このぐらいの歴史がちょっとあるということを知っておいていただけたら幸いだ。時代は進めば進むほど短い時間で濃厚な歴史が積み重なっている。
梅雨の合間の晴れた今日6月中旬、ほぼ一日がかりでこのエッセイを書き上げた。書こうと思っていたわけでなく、朝に昼寝していたらなんとなくおもむろにパソコンへ向かい、どこかから降ってきたようになったので自動的に書き出したのである。何かあれば教えて頂きたい。インターネット上の文章なのに長いものを読んでくれてありがとうございました。
* 急なお知らせ
これを書き終わって、上の段落でこの文章を終えようとしていた。
わたしの好物である「ふ」菓子を食べているあいだ(福島の「ふ」でもあり、ふくしま会議の「ふ」やふくしま本の森の「ふ」でもある)、妻とテレビを見ていたら、いきなり夕方テレビのニュースでわたしたちも知った(新聞では数時間前に報道があったようだ)。休憩ゼロでよく書いた……もし先にニュースを知っていたらこのエッセイは飛んでしまっていたことだろう。「ああ、ついに……ついに……」という言葉にならない感情がじわじわとこみあげるのを静かに見守る。
いろいろな運命に翻弄され続け、これからも翻弄されすぎるのか、それともそういう運命に抗い続けて、できればみずからの新しい運命を切り開いていくか、だ。
大熊町について「避難指示区域において帰還困難区域のなかで指定されていた再生区域」について避難指示の解除が決まったとのこと!日付は何故か6月30日!ずっと春を予定していたがコロナ禍の影響により7月予定に変更という事前お知らせがあったと思うが。
FTV福島テレビによれば、「『復興拠点』には、2225世帯5896人が住民登録しているが、2021年12月から始まった帰還に向けた「準備宿泊」に登録したのは、18世帯49人にとどまっている。」とのことだが、「18世帯49人もいた!」ということにわたしはむしろ勇気づけられ驚いている。
今回の解除は、かつては町の中心部だった下野上地区(しものがみちく)などのことである。町域の11%に相当するようで原発事故前には、当時の人口(約1万1500人)のおよそ半数の約6000人が住んでいたとのこと。
避難指示の解除は今月30日午前9時を予定している。吉田淳町長は記者会見で「町民の帰還や復興がさらに進む。駅前開発や企業誘致で住む家や働ける場を整備したい」と話した。(引用と参照 毎日新聞『福島・大熊町の復興拠点、6月30日に避難指示解除 葛尾村に続き』尾崎修二 毎日新聞 2022/6/16)
「駅西口には原発の廃炉関連企業などが入居するビルや商業施設を建てる計画」もある(引用『原発事故11年「私の知らない大熊に」 避難解除、見通せぬ帰還』尾崎修二 同新聞 同日)。
すでにひきこもごも。
なぜか同時に、「避難者訴訟」と「衆議院議員小選挙区5から4区へ減少と再編」のニュースも入ってきた。政治と司法はつねに日本の悲喜こもごもである。解除は7月ごろと聞いていたのにこの2週間前まで何の日付のお知らせもなかったからなにか問題でもあるのかと思っていて、誰かに聞いてみようと思っていたところだった。
6月16日掲載の大熊町HPから大熊町拠点区域解除地図と文章を引用する。
「特定復興再生拠点区域の避難指示解除に関する町と国・県の協議が6月16日に行われました。吉田淳町長は同区域の避難指示を6月30日午前9時に解除したいと提案。出席した石井正弘原子力災害現地対策本部長(経産副大臣)と鈴木正晃県副知事が同意しました。今後、国の原子力災害対策本部会議が開かれ、避難指示の解除が正式に決定します。」(大熊町役場 環境対策課 生活環境係)
(参考地図の出典 『大熊町の復興拠点、30日に解除 避難指示、原発立地自治体で初―福島』時事通信 2022年06月16日16時09分)
なお、テレビのネット・ニュースによれば、政府・県・町が一斉に会見を開いたようだ。なぜ30日(木曜日)という日取りなのかは示されていない。カレンダーを見るとちょうど2週間後だ。せめて「半月前に決めて知らせた」という恰好なのかもしれないと推測した。
「福島県大熊町の帰還困難区域のうち、特定復興再生拠点区域の避難指示解除について、政府・県・町が16日午後会見を開き「6月30日に解除する」と明らかにした。帰還困難区域で住民の居住が可能になる避難指示解除は葛尾村に次いで2例目。(引用【速報】6月30日に避難指示解除 大熊町の復興拠点 政府などが表明 6/16(木) 13:51配信 テレビユー福島 ヤフージャパン)
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これからまた、未知なる大海原へ大航海の始まりである。それは帰路というのか、別荘というのか、出発地点というのか、どれもだと言えるのだろう。とにかくわれわれは、数々の深い歴史を経験して、スタート・ラインに立つことができることになった。それはまだあくまで形式的なラインであり、それぞれにはそれぞれの実質的・事実上のスタートラインがあるため、全員が同じ状態というわけでは決してなくここにも悲喜こもごも人々のドラマがあるのが、いずれにせよ、法的に避難生活は終わり、実質的に「2拠点生活(11年避難)」者のスタートラインとなった。
そして夕方の散歩に妻と出かけての空がこのようであった。いかにも境界らしい美しさが感じられる。民俗学的に言えばハレの日が11年続いたとも言えるだろう。そこをケの標準にすれば、さらなるハレの日はもうすぐそこだ。毎日が越境の日々であった。おつかれさま。久しぶりの執筆に燃えた。これからもそうなるのだろう。世界と日本と福島のひとびとの平和を祈る。
2011年3月11日午後2時46分~
2022年6月30日午前9時00分。
お世話になった人達へのごあいさつは、いずれゆっくりとさせてください。いまのところはひとこと、「みなさん、ありがとうございました!」
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