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あのときの「ありがとう」

最近、久しぶりに松屋で牛めしを食べていて気がついた。
お客さんがみんな無言で店を出て行くのだ。

以前はラーメン屋さんや、定食屋さんなどで食べ終わって店を出ていくときには、ごちそうさまという声が聞こえていたように思う。

誰も気にも留めていないようだったが、いつの間にかそんな文化がなくなってしまっていたことに少し寂しさを覚えた。

まだスマホもない、少額の支払いは現金一択だった時代のある日のことを、ふと思い出した。

知り合ったばかりの知人と、コンビニで会計をしたとき、彼が一言「ありがとう」と言っていたのを聞いた。

とても自然な、心のこもった関西弁の「ありがとう」だった。

対応してくれている人に無言とか、そういうのはあまり好きではないとのことだった。

それはとても素敵な考えだと思った。

でも一方で、お金を払っているんだからいいんじゃないかという思いもあった。
何より気恥ずかしいし、彼のようにはうまくは言えなそうだと思った。

それから時が流れて、なぜ彼があんなふうに「ありがとう」と言えたのか、今なら分かる気がする。

当時の僕は、お金を払ってるんだから、○○○してもらって当たり前と考えていた。でも、それは本当は当たり前じゃなかった。

買いたいと思った物の裏には、必ず誰かの仕事がある。
例えば、生産してくれる人、流通してくれる人、小売りしてくれる人、レジで対応してくれる人。
そういった人たちが働いてくれているから、僕はコンビニで買い物ができる。

働く人がいなければ、どれだけお金を積んでも物は手に入らない。
例えば、ひとたび大きな災害が起きてしまえば、物資は不足し、ライフラインも止まってしまうかもしれない。
そんな時に、お金を払うから何かくれといっても、物がなければどうしようもない。誰かが生産した食べ物を、誰かが運んでくれない限り手には入らない。

自分自身も被災しながらも、ライフライン復旧のために懸命に働く人がいる。
道路を復旧させ、物資が運び込めるようにする人たちがいる。

それは、なぜか。
それが困っている人を助けることになるからだ。
特に災害時はそれが命に係わることもある。

誰かのために、誰かの役に立つために働く。
そういう「誰か」の仕事によって私たちは支えられている。

モノやサービスの裏には、必ず「人」がいる。
それは決して当たり前のことではない。

彼は、その働いてくれている人を見て、「ありがとう」と言ったのだ。

お金を中心に物事を見ていた当時の僕には、そのことが分かっていなかったのだ。

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