「人生」はコンテストの参加者か?それとも主催者か?
とある有名作家のエッセイに出てきた一節から、ヒントを得て書いてみます。
メインのテーマじゃなかったので、詳しくは掘り下げられていなかったのですが、次のような文章がありました。
「自分が好きなようにできないと感じている人は、自分の人生をコンテストに出品して、周囲から審査を受ける具合に、日々を捉えている」
みんなに認めてもらえる。
周囲から褒められる。
大勢から賛同される。
このように、「他の人」から認めてもらえないと意味がない、と考える人は結構多いように思います。
人間は社会の中で生きているから、どうしても他人の目が気になる、人と比べてしまう、評価が拠り所になるのは仕方ないのだろうと思います。
ちょいと話は逸れますが。
コンテストとコンクールって、似てますよね。
どちらも「競技」「競争」の意味です。
ほぼ同じ。
コンテストは英語由来、コンクールはフランス語由来だそうです。
「コンクール」のほうは、音楽や絵画など芸術系の方面で使われることが多く、それ以外は「コンテスト」がよく使われるみたいですね。
境界線は、わりと曖昧なようです。
ミスコンなどの「コン」はコンクールじゃなくてコンテスト。
たぶん。
さて、話は元に戻って、自分の人生なのに、コンテストのように「他人から評価される」ような意識ってどうなのよ?という話。
生き方なんて自己満足の世界なのに、競技のように、勝ち負けとか、優劣とか、合否とかがあるもの、と思っているのかな。
だから「勝ち組・負け組」という言葉があったり、「マウント」という行為があったり、「人生失敗」のような認識があったりするのだろうな。
予選通過どころか、そもそも書類審査の時点で落ちるよな、と考えている人も多そうです。
人との比較や、競争がある、っていう前提の証拠になってますよね。
最近は物議を醸し出している「ミスコン」(ミスでもミスターでも)ですが、単純に容姿だけじゃなくて、所作とか知性とか内面なども審査対象になりますよね。
多面的に評価されて、その合計得点で競うってのがセオリー。
人間の「人生」をコンテストに出品したとすると、学歴審査、職業審査、年収審査、資産審査、家族審査、住まい審査・・などなど、いろんな分野で「優劣」が他人からジャッジされるってことなんでしょうかね。
みんな必死で、少しでも審査に勝ち残ろうとしていて、そこで勝ち残ったとしても、それって自分の満足度とリンクしているのだろうか?というのが疑問。
疑問っつーか、人からの評価と自分の満足度は別だろ、というのは、たいていの人は頭では理解しているのだとは思うけど。
それでも、人は他人と比べてしまうし、周りからの評価は気になるもんなのだろうと思います。
本当は、コンテストに出品するものではなくて、自分が主催者というのが正しい認識なのだと思います。
ジャッジする基準は、すべて自分で決めてよし。
他人と比較するのは無意味。
そもそも「自己満足」のみ。
『俺人生コンテスト』で優勝すれば、それでいいんじゃないかと思います。
自分が毎日ゴキゲンで生きていれば、他人が年収や地位や名声のようなものにこだわっているのを見ると、少々滑稽に感じてくるはずです。
人生は競争でも戦いでもない、と考えることで、「生きづらさ」は少しは軽減するんじゃないかと思います。
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