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「サンショウウオの四十九日」朝比奈秋先生

※ネタバレを含みます。閲覧にはご注意ください。
※あくまで個人の感想・書評です。

・第171回芥川賞受賞作

いま、私は“だれ”? 結合児と伯父の死の物語

主人公である杏と瞬は、ひとつの体をふたりでわかちあう結合児として生まれた。脳も頭も胴体も、感情も知識も思い出も個である部分はなく、ただ「意識」だけが個として在る。
そんなふたりの伯父・勝彦が亡くなる。勝彦の弟であり主人公の父である若彦は、幼い頃勝彦の体の中で育ち続けた「胎児内胎児」であった。伯父の死を受け、杏と瞬は自分たちの意識や死について考えを巡らせる……というお話。

著者の朝比奈先生は医者でありながら芥川賞を受賞されたスーパー・ライティング・ドクター。(勝手に二つ名つけて怒られそう。)だからか、医学的な表現に何も違和感を感じず、むしろ知識に裏づけられた安心感があります。おかげで物語に没入でき、さらりと読みきることができました。

杏と瞬はひとつの体でありながらふたりなので、性格もまったく違います。温まりたい、お腹を満たしたい、性的欲求を満たしたい。しかしひとつのからだであるから、一方が満たされることに一方が付き合わされるか、一方が嫌なことは一方が配慮しなくてはならない。しかもそれらの感情を隠すことはできず、否が応でも共有されてしまう。
ふたつの個でありながら、自分の内とも外ともいえない場所に、もう一人いる。このなんとも曖昧でなんとも完全な存在を見事に描ききった作品だと感じました。

これぞ小説であるべき! 小説表現が冴えわたる。

久しぶりに「小説が表現として最適な作品」を読んだ気がします。
ドラマ化、映画化、コミカライズ、アニメ化など……。最近の小説はメディア展開されてナンボ、のような風潮があるように思えますが、この作品を映像化したいと思う方はいないんじゃないかしら……?
少なくとも、私は映像化されても観に行かないかな、と。
(いや、よさそうだったら観に行くかもだけど。←)

主人公・杏と瞬は、「自分を自分たらしめる意識」について思いを馳せます。杏は哲学書や宗教書などの書物を読み漁ることで。瞬は自身の過去や経験や記憶を振り返ることで。
しかし記憶や感情すら、自分というハードルを難なく超えてきてしまうふたり。その私たち(ひとつのからだにひとりの人間しかいない人たち)が理解し得ない感覚を、文体が的確に表現してくれています。
具体的には、まるでグラデーションのように、主体が杏から瞬へ、そして瞬から杏へ移り変わっていくのです。もちろん小説なので、声色ではわかりません。また、ふたりとも一人称は「私」なので、いつのまにか主体が変わっています。とても不思議な読書体験。映像化するとここまでグラデーションが出ないと思う。まさに芥川たる所以がここにあると感じました。

でも不思議なことに、後半になってくると、「ああこの言い方は瞬だな」「この思考は杏だな」ということがわかってきます。なんとなく。それは彼女たちが確かに別意識(「別個」とは言い難いので、あえて「別意識」としました)の存在なんだなと思わされます。この押し付けがましくないのに刺さる描写力にあっぱれ。

若彦……スキ……。

このお話で私がいちばん好きな登場人物は、主人公ふたりの父親・若彦です。

この若彦、おっとりすぎる。
娘が実家に帰ってきているのに起きてこない。
自分の兄の葬式に間に合わない。
火葬場で、棺を閉める時間にも間に合わない。
四十九日の納骨にも間に合わない。
間に合わないのオンパレードです。仕事に行って渋滞につかまりがちな男、それが若彦です。
しかも納骨の日は夜中に到着して真っ暗ななか墓へ行き、どぶ川に落ちてしまうというおっちょこちょいぶりも発揮します。

でも多分、若彦はわかってるし、勝彦もわかってる。
この世での出会いも別れも、遅れてくるのが若彦なこと。
そんな弟を妊婦のような慈愛で受け止めてくれるのが勝彦なこと。
でも誰よりも深い部分でお互いがつながっていること。そして若彦は、誰にも認識されない寂しさを知っている。それを感じさせまいと、大切な娘たちを見守っている。

これらの一見奇妙な、でもすこし神聖さを感じるような若彦の言動が、この物語を根底から支えているのは言うまでもありません。


いろいろ書きましたが、総じて小説ってどこまででも行けるのだ、と改めて思った作品でした。終わり。

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