那智勝浦町昔懐かし話 第15話
第15話『勝浦温泉花火大会の中止 1』
僕が携わったイベントとしてやはり花火大会の事は避けられない。多分この話を書くことにより反感を買うだろう。しかし、それでは、当時いっしょにやっていた各団体の皆さん、諸先輩達が自分たちの都合で花火大会をやめてしまったと思われ続けるだろう。事実を誰かが書かなくてはいけないと思う。だから当時の花火大会事務局責任者として後世に伝える為あえて書きます。実名で書くことお許しください。
前にも書いたが僕の観光協会への入社は、平成5年12月である。勝浦温泉花火大会は8月1日なので僕が事務局責任者として携わったのは、平成6年から平成16年までの11年間である。平成16年終了後に中止となた。この11年間各申請やプログラム作り、実行委員会や警備会議の資料造り等はほとんど僕ひとりでやっていた。花火業者との打ち合わせや台船関係は、久司さん、大江さんや井藤さん等の商工会の皆さんが行っていた。勝浦温泉花火大会は僕が生まれた昭和38年よりもっと前より続いていたと思う。僕たち観光協会が事務局を受け持つまで商工会や他の団体の皆さんが事務局を受け持ち行われていた。
昔から那智湾と勝浦湾で交互に行っていた。まず那智湾での花火の事を書くと、当時は那智漁協の奥の堤防も使い海上には丸濱組の台船が2台と、3カ所より花火が打ちあがりそれを出来たたばかりの那智海水浴場の階段溝に座り見学していた。海が舞台なので台船からは大玉の10号玉を打ち上げたり、海中自爆も名物となっていた。露天は今の臨海道路側の海水浴場駐車場に並んでいた。勝浦湾では、渡の島の堤防、海上に台船2台浮かべて打ち上げていたが、陸から台船までと台船からホテルまでの距離の規制により10号玉等の大玉や海中自爆等は無くそのかわり2台のクレーンで鉄線をつり上げたナイアガラの滝が名物だった。僕が初めに携わった平成6年頃も警備体制の規制は厳しく那智湾の時は勝浦御苑の裏側の堤防から木戸浦グランドの端まで10mごとに落下したときの為のロープを付けたブイの設置、足下を照らす電球の設置、臨海道路の陸橋の海側に落下しないように角材と虎ロープで柵の設置等し花火大会開始前より消防団の皆さんを初めとした担当者の見廻りを行っていた。運営本部と台船とのやりとりは、トランシーバーを使っていた。また、勝浦湾では、落下防止対策に、より厳しく役場側、木下水産物裏の岸壁から脇の谷の渡の島あたりまで丸濱組に頼みセメントで造ったブロックに角材を取り付けそれを約10メートルおきに岸壁に沿って並べていき端から端まで何キロもの虎ロープで4往復ぐらいして落下防止の柵を取り付けた。見学客はその内側で花火を見学するわけである。また、その柵に沿って10mおきにブイを置く。
。第15話終わり 第16話に続く
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