【朝三暮四】(ちょうさん ぼし)
―― 目先の差にこだわって結局は同じだとは気づかないこと。また、言葉だけでうまくごまかすこと ――
宋の国の狙公(そこう)という人がたくさんの猿を飼っていた。
あるとき猿たちに、
「これからはお前たちにやる木の実を、朝三つ、夕方四つにしよう」
と告げた。
すると猿たちは、それは少なすぎると騒ぎ出した。そこで狙公は、
「すまんすまん。それでは朝は四つに増やそう。そのかわり夕方は三つで我慢してくれ」
と訂正したところ、猿たちは、その量なら満足だ、と機嫌を直した。
――と、こんな譬え話が「莊子」(そうじ)の「斉物論篇」(さいぶつろん へん)というところに載っていて、そこからこの「朝三暮四」という言葉が生まれ、目先のことに惑わされてはいけませんぜ、てなことを教えている、ということになっている。
が、コトはそう簡単ではない。
なにしろ「莊子」なのである。万物を支配する根本の原理を「道」として、この「道」から見れば一切の事物に区別などないとか、「道」と一体化することによってのみ、初めて人は自由な生き方を獲得することができるのだとか、そんなことが書いてある思想書なのだ。
先の譬え話も、こうした文脈の中で捕らえなければならないのだから、たんに目先のこと云々だけで片付く話とは思わないほうがいい。
全き存在である「道」は、無限に変化する。また、融通無碍に変化するからこそ全き存在なのである。
しかし普通の人間にはそこまでは見えない。だから変化した「道」のいち断面をとらえて、よいことだとしたり、役に立たないものであるとか判断してしまう。これは「道」とは遠く離れた、自己の勝手な判断、決めつけにしかすぎない。
そういった勝手な判断は、物事の本質から遠く離れているという意味において「朝三つ、夕四つ」と「朝四つ、夕三つ」の区別がつかないのと同じことだ。
本質の「道」がちゃんと分かっていれば、その二つが同じであることに気づくであろうに。
とまぁ簡単に書いたが、本当に説明しようとすると本一冊分まるまる使ってもとても説明しきれない。というよりも、筆者もよく分っていないのだから説明のしようものだが。
ともかく、そういったことを説明しようとして引き合いに出されているのが「朝三暮四」なのである。ここはやはり「目先のことにとらわれるのはやめましょう」くらいに解釈しておいたほうが無難というものだろう。
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