終戦から79年 戦争体験1(母の手記)
出征兵士の歌(昭和54年記)
佐藤邦子
バンザーイ バンザーイ バンザーイ 又今日も日の丸の小旗を振りつつ出征兵士を見送る人の顔々々 「無事のお帰りを待ちます」と云えば 貴方は雄雄しくも今度逢う日は来年4月靖国神社の花の下 こんな悲しい詩が当時あたりまえに叫ばれて居た軍国日本の姿であった。
昭和16年12月8日は太平洋戦争の突入年前のあの頃から食料、衣装、ゴム靴、その他いろいろの統制がはじまった。第二師団に毎日の様に入営する日本男子は青年あり、壮年あり 当時私は昭和15年の皇紀二千六百年の式典に、あの追廻練兵場で旗行列に参列した一人の女性として小学5年生のオカッパの少女には入営する心の奥底は到底わかるはずもない。
一人息子をお国に捧げた軍国の妻、今もその傷あとは癒すべくもない!!支那事変以来ずしっと我が家の前を真夜中に通る兵隊さん達の靴の音、無言の悲しみのザクザク、ザクザクと地獄への行進でもあった。
昭和18年頃からは見送りも一切出来なくなり、戦地への旅立ちは仙台駅頭でも全部汽車の窓ガラスもシャッターを下し、肉親すら我が息子我が夫の戦場行は全く知らされなくなった。又毎日戦地から内地に無言の帰還をする多くの戦没者の霊。白木の箱に納められ、後輩の胸に抱かれての二師団への帰還。
タッタカタータッタカタータッタカタカタカタッタカター あの悲しい鎮魂歌はこの耳この目この胸のうちから三十数年を経た今日でも昨日のことの様にはなれない。胸がくるしくいたむ。
若い大学生もペンを銃にもち替へてこのいまわしい戦争の犠牲になったのだ!!今私も当時の息子を戦場に送った悲しい母親のあの気持の解る年令に達したのだ!!もし又あの時と同じことが起こったら~
今でも戦死した筈の息子の帰りを待ちつづける軍国の母が数多く居るのだ。元気で帰る日のあることを信じつづけなければとても生きつづけることの出来ない母親達が日本中に居るのだ。息子、夫を帰してくれと!!
どこにこの怒りをぶつければいいのだろう。戦争の恐ろしさを知らない若者よ、平和を大切に。又8月6日の広島の原爆の日のきのこ雲の地獄の雲よ悪魔の雲よ、立ち去れ!! いまわしき戦火の雲に逝きし民 やすらかにねむれとぞ思う 平和の鐘
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