猫を通して観る「わたしたちはどこへ行くのか」-『五香宮の猫』想田和弘監督(2024年)
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10年以上前から持ちつづけている雑誌の切り抜きに想田和弘監督のドキュメント映画『精神』がある。いつか観ようと思っていた。その映画をなぜか今年の9月に突然思い出し、観たばかりだった。
まったく同じ時期、大阪の文学フリマで購入した吉村萬壱さんの『萬に壱つ』に「精神」について書かれていた。吉村さんは薬のようにこの映画を繰り返し観ているそうだ。奇遇だと思った。
そして10月19日、想田監督の4年ぶりの新作映画が公開された。タイトルは『五香宮(ごこうくう)の猫』。大阪の第七藝術劇場で舞台挨拶をするという。観に行かなきゃ。
想田監督のドキュメントはすべて「観察映画」と銘打っている。解釈や台本を加えず、ただただ撮影していく手法だ。それはなんとなく小説家の乗代雄介さんに教わった風景描写の書き方と同じだと思った。
「精神」の舞台は(これもまた)偶然にも、風景描写で今年2度訪れている岡山県が舞台だった。冒頭で既視感のある黒い城が映り、立派な橋が見えたーー岡山城と旭川である。
今回の映画も岡山県だが、牛窓町という瀬戸内海にある小さな港町で撮影された。
想田監督は27年間のニューヨーク(!)生活から一転、日本の田舎町に越してこの映画の制作を始めた。この差異にクラクラする。
映画はオレンジ色の猫が監督のマイクにじゃれつくところから始まる。
マイクについたほわほわした毛を、おもちゃのように舐めてじゃれつくのだ。監督のダメ、ダメだよ、の声がする…
この猫・茶太郎は台風の日にもにゃあにゃあ鳴いて、監督の家にかくまってもらっていた。
地域のお宮「五香宮」に集う人々と、猫たち。猫は撮影当初は30匹いたが、今は11匹だそう。
繁殖しないようゲージで捕まえて手術を施していく。人間に捕まえられて激しく威嚇したり鳴く猫を観て、この世の終わりくらい恐いだろうなと思った。
坂東眞砂子という小説家が飼っている猫の避妊手術をせずに、生まれてきた子猫を崖から落として殺していた話を思い出した。
映画には70歳〜くらいの牛窓町の人々が多く映る。小学校一年生の子たちの課外学習の模様もあったが、不思議なことに、彼らの親世代(20〜40代)はほとんど出てこなかった。いないのかと思うほどに。
また、2020〜2024年に撮影された現代の映画なのに、スマートフォンが出てこなかったのも印象的だ。自転車に乗った小学生がながらスマホをしていた(たぶん)のが一回映ったくらいだろうか。
この町の景色はすべて「日本にまだこういうところがあったんだ」と思わせるものだった。それはこの町のコミュニティー自体が「まだ残っていたんだ」と思わせるものだった。
映画後の舞台挨拶で、想田監督が「(現代について)これ以上の進歩っていらないんじゃないかな。なくても困らないじゃないですか。AIを開発して利益を得ようとする人もいますけど、今なくて困ってないから、余計なんですよ。進歩って、なんというか、キリがないです。僕たちが子どものころって、メールもないしケータイもなかった。でも生きられましたよね。便利になって、僕たち前より忙しくなった気がしませんか」(意訳)と話されていた。
そう、便利になれば、牛窓のコミュニティはなくなるのではないか。あの町にAIロボットやUberがいるだろうか。
わたしは手紙を書くのが好きなのだが、もらった場合、LINEやメールで「手紙届いたよ、ありがとう」とすぐ言わないと失礼な気がする。でも本来は手紙の返事は手紙でしたい。即座に反応できる現代社会で、沈黙は悪だという圧力を感じるのだ。このスピードについていけなくなった。5年後10年後、わたしたちはどこへ行くんだろう。
手術によって、あの町から猫はいなくなると監督もプロデューサーも断言していた。猫が消えて、そしてわたしたちは…
観た:10/20
note:10/20