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不思議の国のサラリーマン-「馬」小島信夫(1954年)/『若い読者のための短編小説案内』村上春樹②

 (1,975文字)
 理屈のちがった世界に放り込まれたみたいだ。
 受け身に次ぐ受け身の主人公におかしさと切なさと心細さが止まらない。笑えるという意味も含めて傑作中の傑作だ。なにもかも巻き込まれているはずなのに、これを引き起こしたのはどうやら僕自身らしいという無責任具合。
 夫婦小説?妄想小説?リアリズム?それとも狂人小説?落ち着いているのに狂ってる。いちいちつっこんでいたらキリがないほど仰天させられた。

まず最初に言えることは、この「馬」という短編小説は読み解くにはかなり厄介な作品だということです。一筋縄ではいかない。(略)
 筋立てのほうは途中から、まるでメロディーが音階を崩していくみたいに、だんだんともうろうとしてよくわからない、常軌を逸したものに変質していきます。

『若い読者のための短編小説案内』村上春樹 P.65

 村上春樹は『若い読者のための短編小説案内』で「馬」について、これでもかというくらい「変」と連呼し、「根本的に変」とまで言っている。
 それでハードルが上がっていたはずなのに、読んでみると「馬」は本当に変な話だった。文体が変、展開が変、セリフが変。一文一文、今までの読書体験ではまったく歯が立たない短編だった。


 頑張って要約するとこうだ。
 ある日僕は家の敷地に大量の材木が積んであるのを発見する。誰かが家を建てるに違いない。だがここはうちの敷地。妻のトキ子に尋ねるとこんな返しがきた。

「誰におかせてやったの」
「さぁ、何といっていいかしら、誰にもおかせてやらないわ」
「すると、これはどういうことなの」
「私が置かせたのよ」
「そう、誰が建てるの」
「そりゃ、あなたよ」

『小島信夫短篇集成①小銃・馬』(2014年) P.546

 まったく覚えがない話に僕は混乱する。しかし着実に新たな二階建ての建築は進むうえ、棟梁は夫である僕ではなく、トキ子に家の相談をして僕の存在をまったく無視する。棟梁はトキ子に向かって「ダンナこれは馬小屋にするんでしょう」と言う。

僕は、トキ子のことを「ダンナ」と呼んでいるのにもおどろいたが、「馬小屋」ときいてぎょうてんした。(略)
僕がふしぎに思うのはトキ子が、
「馬小屋にしましょうね」
とかんたんに同意してしまったことなのだ。
「あなたはこの石を食べる? それとも、カレーライスにする?」
と問を発する如きものなのだ。

『小島信夫短篇集成①小銃・馬』(2014年) P.557-558

 なんと家が完成した後、その新築に立派な雄馬が住みはじめる。
 トキ子はなにくれとかいがいしく馬の世話をし、馬のためにセーターまで編み出す。妻が夫である自分よりも馬を愛していると感じた僕は馬に対決を挑むが、馬は僕を乗せたまま激走し、僕は頭から池につっこんでしまう。馬との戦いに敗れた僕は精神病院に入院しにいく。するとトキ子から愛の告白を受ける。・・・

 私も村上春樹の要約を読んでから本編に及んだが、要約では小説の魅力は1mmも伝えられない。改めて小説は文体だと思った。ネットのあらすじや「漫画で読む名作」があるが、そんなんじゃ全然ダメだ。全然足りない。むしろネタバレなんかではビクともしないとてつもない魅力が本物の文学にはあると強く思った。

 村上春樹はこの小説を読み解くにおいて、仮説を立てる。

なぜ馬なんてものが必要だったのか?(略)
彼女はどうして無理に家を新築しなくてはならなかったのでしょう?

『若い読者のための短編小説案内』村上春樹 P.80

 前回の吉行淳之介「水の畔り」のときと同じだが、展開に理由あるの?と不思議だった。家を増築させて馬を飼うっていう「奇抜に見せるため」じゃないの?でももし理由があって書いているなら奥行きがある。
 読み解くために仮説を立てる発想は楽しい。正解しなくていいんだから。

自我を不鮮明にすることで自己を防御しようとしているようにかさえ思えます。

『若い読者のための短編小説案内』村上春樹 P.84

 受け身にし、決定しないことで自分に無責任になってる。そのことにも無自覚であろう主人公の生き方が読者の前に客観的に暴かれていく。小島信夫はそのことまで計算していたのだろうか?

 読んでいる間使ったことない脳の部分が刺激されているようで、語彙を増やしたいとこの短編に出てくる熟語を嬉々としてメモした。そんなことをするのは初めてだ。

 村上春樹が取り上げなければ絶対に読まなかった作家だ。この奇妙な文体・展開の小説が、多くの人に読まれないのはすごく惜しい(だから読んで)。文学の世界はまだまだ広い。宇宙が今もその裾野を広げているように、私は死ぬまでにどれだけ私の中の文学の宇宙を広げられるかな。
 この小説で私はアリスになり、いつのまにか主人公を笑っているチェシャ猫になっていた。

「馬」読む 3/29
村上春樹 再読4/25
note完成 4/28


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