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短編小説 『きらいなピンク』

 ピンクのクマのぬいぐるみ。ピンクのハートのネックレス。ピンクのショルダーバッグ。二十才の誕生日に届いた、ピンクベージュの三つ折り財布。私が幼いころにお母さんと離婚したお父さんは、いつまでも私のことをピンクが好きな女の子だと思っている。誕生日になると毎年決まって届く段ボール箱、そのなかに入っていたピンクのプレゼントは、今ではほとんど押入れの奥。久しぶりに引っ張り出して眺めると、ピンクはピンクでもそれぞれ色が違うことに気づく。唯一色の主張が控えめな三つ折り財布が、いちばん使いやすいかな。中央にリボンの飾りがあしらわれているそれは、私の好みとは真逆のキュートなデザインだけれど。

 ピンクのバッグはマナー違反だから持っていけない。お父さん、私、今は黒や白の方が好きなんだよ。ピンクベージュの財布を黒いバッグにつっこんで家を出る。空を、厚い灰色の雲が覆っていた。傘を持ってきた方がよかったかな。しめり気を帯びた風が、綺麗にセットしてきた前髪をうねらせる。気分が重い。私が一二歳のころに若い女性と再婚したお父さんとは、何年も会えていなかった。中学に入学した春、回転寿司に連れて行ってもらったのが最後だろうか。そのとき、再婚相手のマナミさんとは一度だけ会ったことがあるけれど、彼女が私をよく思っていないということは手に取るようにわかった。

「お父さん、もう私とは会わない方がいいよ」

 あれ以来、お父さんとは一度も会えていない。私は、ピンクのプレゼントが嫌いになった。私はもう子どもじゃない。お父さんとお母さんと手を繋いで笑っていた、ピンクが大好きな私じゃない。年に一度のプレゼントひとつで罪滅ぼしをしようだなんて、ずるい。

 乗ったことがない路線の電車に揺られて小一時間。知らない屋根、知らない公園、知らない川。ぼんやりと景色を眺めながら、幼いころの記憶を辿る。移動中はいつもイヤホンをつけて音楽を聴いているけれど、今日はそんな気分じゃない。私がピンクを好きになったきっかけはなんだったっけ。嫌いになった理由しか思い出せない。三歳のときにお父さんとお母さんに連れていってもらったテーマパークで、私はピンクの風船をずっと手に持っていた。猫耳のカチューシャもワンピースもぜんぶピンク。今思い返すとちょっと恥ずかしくなるほどピンク一色だった。

 お通夜の式場は、駅から十分ほど歩いたところにある。初めて着た喪服はお母さんのおさがり。お母さん、本当に来なくてよかったのかな。

 真冬の十八時ともなるとあたりは真っ暗で、式場の周りには黒い喪服を着た人しかいない。その光景を初めて目の当たりにした私にとっては異様だった。参列しているのはお父さんが勤めていた会社の人がほとんどのようで、中年の男性が多い。

「この度はご愁傷さまです」

 慣れないことに戸惑いながら、峰川桃華、と筆ペンで名前を書く。お父さんと同じ苗字を書けないことが今は少しだけ寂しい。幼かった私は自分の苗字が変わったことなんて理解できなくて、たまにお母さんを困らせていた。

 受付を終えて式場のなかに入ると、ドラマや映画でしか聞いたことがない木魚の音がポクポクと響いている。遺影のお父さんは、腹が立つほどやさしく微笑んでいた。その周りには白い菊が飾られていて、お線香特有の匂いがふわりと漂ってくる。すべてが非日常的で、現実味がない。私はまだ、実感できていないのだろうか。まるで他人事のように平静な自分がとんでもなく薄情な人間のようで、焦る。つらくも悲しくもない。ただ、お父さんが死んでしまった、と思うだけ。     

 マナミさんはしゃんと背筋を正して座っていた。その隣、セーラー服を着ているポニーテールはミユちゃんだろうか。華奢な肩が小刻みに震えているのを見て、私は偽物の娘だったのかもしれないと思う。もうとっくに乗り越えたつもりでいたのに、こんなときばかり自分を可哀想に思うのは都合がいい。

 お焼香をするために前に出て、私は手を合わせた。遺影のお父さんを見上げても、自分がなぜこんな場所にいるのか、なにをしているのか、いまいちよくわからない。他の参列者の見様見真似でお焼香をして一礼。親族側を振り向く足がもつれそうになった。マナミさんと目が合って、呼吸の仕方がわからなくなる。相変わらず強い瞳は、私をまっすぐに眼差していた。ミユちゃんはやっぱり泣いている。下げた頭を上げるとき、ミユちゃんと視線が重なってしまった。彼女は鼻をすすりながら、ぺこりと会釈をしてくれる。お父さん似の丸い目は赤く腫れていた。

 式場を出ると、大雨が降っていた。ざあざあと横殴りの雨を眺めて、息を吐き出す。ちょっとだけ雨足が弱まったら近くのコンビニまで走ろう。お母さんの喪服を濡らしてしまうのは申し訳ないけれど、傘を買わないことには帰れない。私は式場の外にある自動販売機に歩み寄って、ピンクベージュの財布を取り出した。なんとなくりんごジュースを選んでキャップを捻った瞬間、お父さんにキャップを開けてもらったこともあったっけ、と一瞬手が止まる。リンゴジュースやオレンジジュースの味は何年経っても変わらない気がするのは、私がその変化に気づいていないだけだろうか。喪服姿の参列者たちが傘を広げて帰っていく姿を眺めながら、びしょ濡れになってもいいから私も帰ろうか、と思いはじめる。空になったりんごジュースのペットボトルを捨てて、私は駆け出した。雨を浴びるのも、すごく久しぶりのような気がする。

「桃華さん!」

 式場の敷地から出ると、背後からぴちゃぴちゃと足音が響いて振り向いた。私は驚いて、もっと早く駆け出していればよかったのに、と後悔した。

「ミユちゃん、ですよね」

 私の目の前まで歩み寄ってきたミユちゃんは、淡い水色の傘のなかに入れてくれた。はい、と頷いたミユちゃんはもう、泣いていない。全速力で追いかけてきてくれたのだろう、彼女は肩で息をしながら、乱れた前髪を指先で直した。私の髪はというと、もうびしょ濡れだ。

「あの、わたし、お母さんに頼まれて。桃華さんに、これを渡してって」

「マナミさんに……?」

 ミユちゃんが差し出したのは小さな紙袋。有名なコスメブランドのショッパーだ。受け取っていいものかと逡巡していると、どうぞ、と私の胸元にもう一度差し出してくる。

「わたしもお母さんも、中身は知らないんです。桃華さん宛の段ボール箱のなかに、入ってました」

「……開けていいですか?」

「はい。中身、わたしも見て大丈夫ですか?」

「もちろん。一緒に、見てください」

 十二月。私の誕生日まであと一週間。私宛の、段ボール。私は、綺麗にラッピングされた細長い小箱を取り出す。箱を開ける指先が震えた。小箱の中に入っていたのは、かわいらしいパッケージのリップ。

「また、ピンクかぁ」

「リップ、ですね」

 それは、私には似合いそうにないピンクのリップだった。ぎゅっと握りしめると、淡い桜色の包装紙に雫が落ちる。雨ではないと、数秒経って自覚した。紙袋のなかに一枚のメッセージカードが入っているのに気がついて、そっと手に取る。そのカードまで真っピンクの花柄で、泣いているのに笑ってしまった。私は頬を流れ落ちる涙を拭って、メッセージカードを開く。

  “桃華、二十三歳のお誕生日おめでとう。桃華には苦労をかけてしまったけど、あのころの無邪気な気持ちをいつまでも忘れずに。桃華が明るい道を歩んでゆけることを、願っています。”

「ずるいなぁ、本当に」

 メッセージカードとリップを手に持ったまま、溢れ出すものが止まらない。許したくなんてない、もっとそばにいてほしかった、だけれど私を思ってくれていたという事実に嘘はない。ミユちゃんは何も言わずに、ずっと傘をさしてくれていた。

「桃華さん、これもお母さんから。お母さんとわたしの、連絡先です」

 視界がぼやけて、手渡されたメモに並んだ文字が見えない。私はしゃくりあげながら「ありがとう」と呟いて、式場の方を見た。お父さん、会いたいよ。だけど、もう寂しくない。お父さんとお母さんが別れてから、心のどこかでずっと、私は生きていてはいけないような気がしていた。でも、今ならわかる。離れても、ずっとそばにいてくれたこと。お父さんは最後までずるかったけど、その何倍も私を愛してくれていたこと。

「桃華さん。一緒にごはんを食べませんか。桃華さんと、お父さんの話がしたいです」

 傘に打ちつける雨の音が遠くなる。控えめに微笑んだミユちゃんの笑い方は、お父さんの笑顔とよく似ていた。

〈完〉



大学の課題で、「父の通夜の席」をテーマに書いた小説でした。こんな父だったら、私も許せたかなぁ。いや、私だったら許せないかもな。そんなことを思いながら書きました。苦しかったですが、思い入れのある作品です。

お読みいただきありがとうございました!


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おがわ
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