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【SS小説】病めるときも、健やかなるときも、

こんにちは。
特に前置きはありません。1835文字です。

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病めるときも、健やかなるときも、

 僕たちが結婚をすることで世界はなにも変わらないし、政治家の人たちの人生が終わるわけでもない。ただここに些細な幸せが生まれるだけなのに、聖職者から誓いの言葉をもらうことすら許されないんだ。古びたアパートの角部屋で、醬油をこぼした染みが残るテーブルクロスを頭に被った僕は恋人の帰りを待った。窓から射し込む陽が痛いくらいやさしくて、泣きそうになる。
 同性である恋人とこのアパートに住み始めたのはちょうど一か月前。それぞれの生きてきた時間とふたりで共有した時間に、差はほとんどない。血縁関係があるわけではないけれど生まれたときからずっとふたりだった。不条理で残酷な世界でずっと、ふたりだった。僕にとって恋人は酸素でありそれは逆もまた然りで。お互いが生きていくうえで欠かせない存在だったけれど世界は僕たちが家族として一生を共に過ごすことを頑なに認めない。だから、逃避行という手段をとった。
 恋人が買い物へ出かけると言って閉じた扉がかすかに揺れた気がしたので僕は立ち上がる。その拍子にテーブルクロスがはらりと落ちた。音もなく床にうなだれたそれを踏まないようにして扉を開ける。
「……おはようございます」
 そこに恋人はいなくて、こちらに背を向け手すりに両手をかける女性が控えめに挨拶をして振り向いただけだった。オウム返しみたいにおはようございますと言って頭を下げてから、ああこの人の気配だったのかと少しばかり肩を落とした。彼女はお隣の部屋に住んでいる女性だ。歳は同じくらいだと思っているが定かではない。ギリギリ肩につかないくらいの艶やかな黒髪と成人女性にしては低い身長が特徴である。彼女は、いや彼女も、世間から祝福されない同性との付き合いに悩んだ挙句ふたりでここまで逃げてきたのだと、先週聞いた。すごい偶然ですね、その言葉をつぶやいたのは僕か彼女か、果たしてどちらだっただろう。僕がぼうっとしていると彼女が含み笑いをして静かに言った。
「あなたの恋人、さっき出かけていきましたね」
「あ、はい。買い物に行くって。あなたの恋人は」
「郵便局に用があるってつっかけ履いて行っちゃいました」
 ちゃんと靴を履いてっていつも言っているのに、彼女はそう独り言ちる。まとう空気ががなんとも幸せそうで、僕はおすそわけされたみたいに心臓のあたりがあたたかくなった。並んで手すりからじいっと下を見ていると、長い茶髪を揺らす女性がこちらに手を振っているのを見つけた。彼女の恋人だ。僕はさっきと同じように頭を下げてちらと横目で見やると、彼女は花束みたいな笑顔で大きく腕を振っていた。黒のつっかけを履いたその人は彼女の肩を抱いて部屋に戻ろうとして、ふと止まる。すでに彼女の姿は見えなかった。
「……きみは恋人を愛してる?」
 彼女の含み笑いは、もしかするとこの人から移ったものかもしれない。突然どうしたのだろうと不思議に思う暇もなく口をついて出た言葉は本心だった。
「もちろん」
 先ほどの彼女に負けないくらいいまの僕は幸せそうな顔をしていることだろう。彼女の恋人は返事代わりとでも言うように満足そうに笑って部屋に消えた。見送ってから僕も部屋に戻る。小柄なブラウン管テレビの電源をつけると画面がチカチカ光って、それからここ最近起きた事件や出来事を流し始めた。
 ニュースキャスターの女性は淡々と文章を読み上げる。どこかの動物園でパンダの赤ちゃんが生まれたとか、ご近所トラブルの裁判が始まったとか、観光地の花畑が美しいとか、二か月ほど前に起きた殺人事件の犯人が捕まっていないとか。
 扉が鈍い音を立てて開かれた。恋人が帰ってきたのだ。僕は姿を見つけて微笑む。
「おかえり」
 片手に小ぶりなビニール袋を提げている恋人がふわふわと笑う。
「ただいま」
 袋には真っ赤な林檎がふたつとスナック菓子が収まっていた。恋人は僕の正面に跪く。
「なんでテーブルクロス落ちてるの」
「……僕の頭にのせてみて」
 片手で引き寄せて言われるがままに頭上へ置いた。ふんわり、一瞬こそばゆい感覚があって軽く目を閉じると次に見た景色は泣きそうな恋人の顔だった。
「結婚式しようよ」
 言って、僕の視界は滲む。電源がつきっぱなしのテレビはなお、捕まらない犯人について語っていた。犯人の動機は金でしょうねと、心理学者を名乗る男性が偉そうな口ぶりで的外れに言うのをBGMに、僕たちは縋り合う。
 陽の光は相変わらず無慈悲なほどに僕らを照らしている。誓いを立てるふたりを祝福するみたいに。あるいは呪うみたいに。

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ありがとうございました。

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