【エッセイ】カウンセラーTさんと母親のはなし

2年間通った大学のカウンセリングを、中退したことで同時にやめた。それからそろそろ1年が経つ。在学生だから無料で受けることができたカウンセリング、たいへん、たいへんに助けられた。毎回のように涙を流して、終わって外に出るとすっきりした気分になれた。知らなかった自分を知れた。ものすごく有意義な時間たちだった。

2週間に1回のペースで自分のトラウマを紐解いていって、それの対処法を考えてくれて、たまに雑談もして。いつもいっしょに頭を捻ってくれたのは中年くらいの男性カウンセラーのTさんだった。

ところでわたしの母親は仕事ができる人間で、よく家の中で「仕事仲間の○○さんは常識がない」「△△さんは少しおかしい」「□□さんはすぐに休む」(すべて意訳)みたいなことを言っていた。だから、もともと母親にべったりだったわたしのなかでは「ああ、"完璧"にできなければ、"休まず出勤"しなければ、仕事はそうでなければいけないんだ」という思いがどんどんと大きくなっていった。その言葉たちは呪いみたいに頭に刷り込まれていった。

大学生になって、和菓子屋の販売バイトを始めた。その頃は働いたことのないわたしだったから、自分に出来ることが何なのかもわからなかったしうつ病を発症してもなお楽しく働けていた。けっきょく1年と半年ほどで辞めてしまったけれど。

大変なのはここからで、うつ病が良くなったと意識するたび(後でわかったがこれは躁状態だった)にあらゆるバイトに応募した。そのたびに病んで休んでもうだめだとバイトを辞めた。その繰り返しだった。自分は仕事ができない人間なのだ、母親の言う休みがちで迷惑をかけてばかりの人間なのだと思い込みわんわん泣いたこともあった。
母親に直接そんなことを言われたことはないけれど、過去の母親の言葉たちが遠回しにわたしを責め立ててきた。

「あの人発達障害やろ」「アスペじゃないの?」
これは母親が今でも冗談でよく使う言葉だ。本人の前ではたぶん言ってないと思うのだけども、それを聞くわたしは毎回とても不愉快だし泣きそうになる。
娘のわたしがうつ病と診断されてから、母親は「そんなの迷惑じゃないよ」「誰でも失敗はする」といった類の言葉をよくかけてくれるようになった。それはありがたかったけれど、心の底からそれを信用するにはこの人から受けてきた呪いが重すぎる。
過去に心療内科で「グレーゾーンのADHDだね」と言われたことも伝えた。それでも母親は「アンタはちゃうって。そんなん誰でもある不注意やから」と笑っていた。受け入れられなかったことが悲しかった。

そうやって、過去の母親の言葉たちに苦しまされてきたことに気づけたのはTさんのおかげだった。対処法は母親に対する依存めいたものをどうにかすること。その話が完全に終わる前にカウンセリング通いは終わってしまい、最終日に限ってわたしは布団から出られなくなって電話越しにしかあいさつができなかったのだけれども。

ただ、「もし本当につらくなって話がしたいと思ったらここに連絡してください」とTさんが所属するカウンセリング団体の連絡先をくれた。ずっとずっとわたしのお守りになっている。

わたしはわたしが自殺をしても悲しんだりしてくれる人の姿が、たとえ家族であろうと想像できない。申し訳ないけれど。
わたしの家族は毒家族とかではない、決して。仲もいいと思っている。けれどそれだけは無理なのだ、どうしたってそんな姿は浮かばないのだ。

でも、2年間。2週間に1度。1時間。たったそれだけの時間を過ごしたあの人だけは、わたしの訃報を聞いたならばきっと悲しんで、残念に思って、そしてきっと、がんばったんだなぁって一瞬でも思ってくれるんだ。

なぜそう考えられるのかはわたしにもわからない。ただの自意識過剰かもしれない。でも、でも、わたしにもそんなふうに思える人がいるという事実は、とても愛しいよ。

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