記憶の限界
寝苦しい夜がつづく。
気候のせいもあるかもしれないけれど、パニック障害の症状が再び出始めたことによるものが大きいように思う。以前は、電車の中や大学内の講堂でのみ出ていたにも関わらず、最近は、家の中にいても発症するようになった。
ずっと首を絞められているような感覚がして、呼吸ができない。というより、呼吸の仕方を忘れる。心拍が上がって、酸欠になり頭痛がする。家の中だから、慌てることなくじっとしているけれど、治る気配はなく、ただただ1日を棒に振る。
運良く明け方に寝付けたとしても、その眠りはひどく浅い。夢を見るのだ。何度も何度も。いくつもの話が雑に切り貼りされて、わたしの頭のなかを駆け巡る。わたしは、私であったり、私でなかったりする。
「昔の人」がでてくる。もう既にさよならをした人たち。どちらかが耐え切れなくなって、もしくはそれが自然であるように、今一緒にいることを選ばなかった人たち。中学の同級生や、習い事先の友人、親友だった人に、ついこの間まで隣に寝ていた人。
わたしが(夢のような無意識でなく)意識的に過去を回想するとき、思い出すのはいつも、幼児期の自分の姿だった。園内を走り回ったり、家のそばで水遊びをしたりする、自分の姿。
ここ数ヶ月間、私はもっと手前にある、濃密で重たい記憶を再生し続けていた。幼児期のわたしは、生塵みたいな記憶の層に押し潰されて、どこかへ消えた。
小さい頃のことを思い出す機会が少なくなっていった。それは残酷だった。わたしが私であることを忘れるような感覚だった。ここにいる意味を、失うような。
代わりに思い出すのは、小学校高学年の頃の私の姿だった。車の中で寝息を立てている(これはきっとハワイでの記憶だ。レインボードライブインの駐車場で、私は時差ボケに耐えられず寝た)。わたしは即座に「気持ち悪い」と思った。
大人に比べればまだ確かに未熟なのに、段々と大人になることを受容しているようなわたしの身体が、心底気持ち悪かった。
わたしはあのころの自分が嫌いだった。女になっていく成長過程の、まさにその最中にいる自分は、自分でないみたいだった。むしろ、完成された(もうこれ以上「女」に近づかない)今の自分の方が、よっぽど好きだ。
幼児期の記憶を取り戻そうとしても、その手前にある塵が邪魔をする。わたしの人生にもう必要なくなった人たちとの、輝かしい、微笑ましい、凄まじい記憶が、私に取り付いて離れない。
可愛らしく笑う幼児期のわたしは遠のいていく。手にとるようにして思い出せた記憶の数々が、失われていく。死んだような気もするし、生まれ変わったような気もする。今まで碌に生きていなかったから、やっぱりやっと始まったのかもしれない。
母の腹には戻れない。
あの頃にも戻れない。
何をもやり直すことはできないけれど、それを解っていなければいけない。
口で言うほど、書き綴るほど、簡単じゃない。わたしは何度も失敗する。失敗の記憶が、またわたしの過去を押し潰すだろう。分かっていないといけない。弁えないといけない。しっかりと、すべてを、諦められなければいけない。
記憶の限界は、想像力の限界かもしれない。
今のわたしに何が生み出せるのか、私も分からない。