存在するものには理由がある
【読書】『人生の壁』養老孟司=著/新潮新書
𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす
世の中、どこかおかしい。そう感じている人は多い。どこがどうおかしいか、気づいている人もいる。しかし、「それはみなさんが一生懸命、そういう世の中を作ってきたからですよ」そう喝破するのが養老先生である。
たとえば、第1章「子どもの壁」では少子化について触れる。少子化の原因はいろいろ議論がある。税金は増えるし物価も上がる。なのに賃金は上がらない。景気が回復する見通しもない。だから子育てに消極的になる。それも正しい。けれど、多くの人が信じて疑わないのは、「自分は子どもを大切にしている」という気持ちであろう。そこが大きな勘違いだという。
子どもには子どもの時間があり、それは子どもの間にしか経験できない、かけがえのない時間である。しかし、われわれは子どもを「大人になるための準備期間」としか見ていない。早く一人前になってほしい。そういう思いで、英語やプログラミングを習わせたり、最近では投資の勉強までさせようとする。それが「子どものため」だと思っている。だが、本当にそうか。われわれ大人は、子どもが子どものままでいられる時間を奪っているのではないか。
「個性の尊重」という標語が、教育においても、あるいはそれ以外の社会生活においても、当然のように使われてきた。むろんそれらが従来の画一的な教育や、集団主義・横並びの日本社会に対する反省から生まれたものであることは言うまでもない。現代で言えば、「多様性」という言葉もそうであろう。大多数のみんなとは違う、自分だけの個性を認めてほしい。それはある意味では必然の成り行きである。しかし、さしたる個性を持たない「大多数のみんな」は、どこに自分らしさを求めればいいのだろうか。だから逆に「個性を持たなければ」というプレッシャーに悩むことになったのであろう。
やや脱線するが、むかし「木曜日の食卓」というテレビドラマがあった。どんなに忙しくても、木曜日の夕食だけは家族そろって食卓を囲む。そういうルールを決めた家族。しかし、時が流れるにつれてルールはうやむやになり、しだいに家族の心は離れていく。そんなストーリーだったと記憶している。現代ではさらに進んで、時間だけでなくメニューもバラバラになった。夫はカレー、妻はパスタ、娘はピザで、息子はカップ麺。なぜかといえば、好き嫌いは個性だという。しかし個性の尊重と称して一生懸命やってきた結果、尊重できた個性がたかだか食事の好み程度とは、何という皮肉であろう。
養老先生がしきりに言っているのは、2038年までに来ると言われている南海トラフ地震である。3.11のような大地震が首都を直撃すれば、現在のような考え方、暮らし方は立ち行かなくなる。そう警告する。
養老先生の本を読んでいると、なんだか村の長老の話を聞いているような気分になる。先に生まれただけでどうして偉いのか。そう怒る人がいる。でも、あなたが生まれる前から世の中は存在するし、世の中のルールもあなたが生まれる前から存在している。それを自分の思い通りにできないからって、腹を立ててもしょうがない。
養老先生が言う「自分たちがそういう世の中を作ってきた」というのは、要するにそのときの理屈で「要らない」と決めてしまったけれど、存在してきたものにはそれなりに理由があるということである。別に昔に帰れと言っているわけではない。話を聞くだけなら損をすることもないのだから。
𝐶𝑜𝑣𝑒𝑟 𝐷𝑒𝑠𝑖𝑔𝑛 𝑏𝑦 𝑦𝑜𝑟𝑜𝑚𝑎𝑛𝑖𝑎𝑥