esportsをこれ以上盛り上げようとする必要は無い。
esports…
エレクトロニック・スポーツ(英: electronic sports)は、コンピュータゲーム(ビデオゲーム)をスポーツ・競技として捉える際の名称である。
こんにちは、よろずです。
僕は以前自分のesportsについてのnoteを書くこの活動を「世間と戦うこと」と言ったことがありました。
まだまだこの日本にはゲームに対する負の感情があり、それを払拭するために動いているのが僕であり、ゲーム好きでかつesportsに力を入れている人達なのです。
年齢は関係ありません。性別も。
でも、ただ単純に、「その努力は何を産んでいるのか」と思った時がありました。
今回は、今一度、esportsは誰のもので、誰の為にあるのかを考えてみようと思います。
ゲームを素直に愛せなくなった頃。
僕はゲームがとっても好きです。
ゲームが友達と僕を繋いでくれる最大のツールであったし、
「上手くなりたい」。
「強くなりたい」。
という目標を唯一実現出来る場所でもありました。
そういう思いを抱いているのは僕だけではなく、今esportsで共に頑張っている仲間たちも、多分そういう愛を持って動機に繋げていると思います。
だからこそ、僕達は「マイナスの意見」に目を向けてしまいがちです。
「勉強の妨げになる」。
「時間の無駄」。
「教育上宜しくない」。
幾度言われた事でしょう。
ゲームは素晴らしいものであり、スポーツにも匹敵する程の熱狂を持っている。
大手企業も参入しているし、この世界を批判する理由が何処にあろうか。
その通りです。
僕もそう思っていました。
でも、周りにあるこの言葉達がどうも耳に残り、ゲームそのものを素直に愛せなくなった時がありました。
その為、そういう考えが少しでも理解に移り変わったり、積極的な意見を持ってもらおうと僕は考えています。
ゲームそのものを素直に愛する為に。
しかしながら、その「マイナス」の源泉は、一体何処から現れたものなのでしょうか。
一体、"誰"が発信したものなのでしょうか。
それはきっと、「世間」なのです。
溢れた僕達は、世間の一部になりたい。
まさか僕がこんな本を読むとは。
なんかちょっとかっこいいよね僕。
とは言っても私大対策の問題なんだけどね。
内容はぜひ手に取ってよく読んでもらえたらなと思います。
この本の文を読んでいて、自分が思った事は大文字で書いた通りです。
ゲームが好きな僕達も、ゲームが嫌いなあなた達も、ただ「世間」という概念を構成する"誰か"に過ぎません。
そして、日本人だからでしょうか。
僕達は、世間になりたがります。
ちょっと難しいこと書くので言いたいことが伝えきれるか分かりませんが、頑張って書きますね。
僕が初めて世間というものを意識しだしたのは家族であり、その中でも特に"親"だったと思います。
人生経験が多い親に比べ、人生経験が圧倒的に少ない僕は、親の言う事が全てであり、親の意見が世間の意見だと認識してしまいます。
そうなると、僕は親に従う事が生きる術であり、親に従って生きる事が何よりも楽な術なのだと思うようになります。
それがいつか、世間に合わせて生きる事になってしまいます。
義務教育を果たし、企業に勤め、結婚し、子供を産むことが素晴らしい人生の解答例だと信じて疑いません。
だからこそ、義務教育を受けないものを見下し、企業に勤めずフリーランスで生きる覚悟をした人間を馬鹿にし、子供を産まない選択をした女性に産むことを強制するセクハラを行います。
誰も、自ら世間から溢れようとしないのです。
そう。怖いから。
しかしながら僕達は、ゲームによって、溢れようとせずとも世間から、そして親の考えから溢れてしまったのです。
溢れた中には、どうにか世間に戻ろうとゲームを捨てる人もいますが、僕達はそんなゲームを愛してしまいます。
そんな複雑な感情から生み出した答えこそが
「esportsは素晴らしいものだ。」
と世間に訴えかけ、esportsという存在を世間に"広めること"こそが、esportsの為であり、自分達を正当化する1つの理由になっているようにも感じています。
しかし、ここで1つの疑問が生じてしまうのです。
esportsは、誰の為のものだろうかと。
誰が為のesports。
僕はそう、改めて自らに問う必要があると考えます。
ただ自分達を正当化させようとする為に、俺達が愛してやまないゲームを使って、興味も持ちやしない大人達に必死にesportsを説明する。
自分もそう思ってnoteを書いてきましたが、何だか馬鹿らしくなってしまいました。
俺達が想像するゲームと、大人達が想像するゲームでは、操作も、グラフィックも、かける熱量も根本的に違います。
esportsと言葉を発して、「Fortnite」と言葉を発することが出来る人間だけが最後に残ればいい。
人を選ばずに、ただ正当化する為だけに、esportsを広める必要はないと思うのです。
興味も持とうとしない大人たちの為にesportsがある訳では僕はないと思います。
このnoteを書く前に、「esports元年」という言葉に対して、何故この言葉が無くならないのかずっと疑問に思っていた時期がありました。
様々な場所でesportsを紹介したり、実際にゲームを設置してみたりと、全国各地でesportsを盛り上げようとする動きが常に見て取れたからです。
なのにも関わらず、僕はesportsの成長を感じることが出来ませんでした。
常に同じ場所に居るような感覚で。
多分僕以外の人達もそう思っていたからこそ、「esports元年」という言葉を使っていたのだと思います。
でもよく考えて見ると、そんな動きが見られる前から僕はesportsに憧れを持っていたのであり、少なくとも可能性は感じていました。
もう今は、盛り上げようとする時期じゃ無い。
もっともっと高いレベルにいると思います。
僕達が変わらないと、esportsも、世間も変わりません。
今一度、僕達がesportsを通じて何をしたかったのか、何を成し遂げたかったのか具体的な形を作り上げる為に考える必要があります。
「esportsはスポーツか」の答えを出す為にesportsに来たわけじゃないでしょう。
みんな、やりたいことをやりましょう。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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