「書く習慣」DAY19|「嘘も方便」は気難しい-自分があまり賛成できない常識-
「嘘も方便」におぼえる違和感
社会人になってからというもの、出会うひとの幅が広がりました。
それまで田舎でぬくぬくと生きてきたわたしにとって、正反対である都会で生まれ育った人たちとの感覚の違いに驚いた経験があります。
これはあくまでも、わたしが出会った中での統計で、万人に当てはまるものではありません。そこを強調したうえで、都会で生きているひとは「嘘も方便」をうまく使って生きていることを知ったのです。
例えば、スケジュールが合わないときは体調の悪化を理由に休んだり、「あのひとには○○と言ってしまったから、適当に会話あわせてほしい」と言われたり。
最初は「どうしてそんなに都合よく嘘がつけるんだろう?」と思っていたのですが、それには環境の違いが大きく影響していることに気がつきました。
都会という街はいい意味で「周囲の干渉」が薄いです。
一方、田舎ではちょっとした行き違いでさえ他人にどう見られて、なんと言われるか分からない世界です。
「嘘も方便」をうまく使って身軽に生きる友人たちの姿に、「なるほどな!」と思った記憶はわたしのなかで鮮明に残っています。生きやすいように自分で身をこなしていくことは、生きていくうえで大切なことです。
けれども、その「嘘も方便」の矛先がじぶんに向いたとき、なんだかとても悲しい気持ちになってしまったんです……
相手はとくに悪気があるわけではないと承知しているし、わたしに嫌な思いをさせないために気を遣ってくれているのかもしれないとも思います。
けれどもやはり、「嘘も方便」のひとつには「保身」という作用を持っています。だから、「そこまでして嘘つかなくても……」と思ってしまう場面があるんですよね。
わたしはやはり、「どんなに嫌なことでも、嘘でごかまされるより正直に伝えてほしい」と思ってしまうタチなので、「嘘も方便」という常識にはどこか違和感を覚えてしまいます。
相手を第一に思う "ウソ" はこの世界に必要
「嘘」 といっても、「保身」ではない「相手を第一に思ってつく "ウソ"」や思いやりからくる優しい "ウソ" も確実に存在します。
例えば、じぶんの心を犠牲にしてまで笑顔でいてくれたり、相手を傷つけないためにじぶんの気持ちを抑えてまでついてくれる "ウソ" だったり。
「嘘も方便」という言葉には、さまざまなシチュエーションがあり、さまざまな想いがひそんでいます。
だから、すべての「嘘」を否定しているのではありません。
でもやはり、「嘘」をつかれた相手が嫌な気持ちになってしまう「嘘も方便」は、あまり賛成できない常識です。
この世界がもっとクリアで、思いやりに満ちた世界であるといいのにと思います。そのためには、まずはじぶんから行動あるのみですよね。「嘘」をつくのであるならば、それは相手にとって気づつかない "ウソ" になるよう、わたしも日々心がけていきたいです。