『シン・エヴァンゲリオン劇場版』感想文の続きと『STAND BY ME ドラえもん2』に関する穏健なる提案
※ネタバレをする。前回ほどではないにせよタイトルにある二作品のネタバレをする。ネタバレを、する。もう一つ。『劇画・オバQ』のネタバレもする。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』感想文の続き
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の感想文を書き終えて、なお気持ち悪い雑念が滞留しているので解放しておく。一つ申し上げると、この記事は『シン』の感想文と同日に書いているので、決して僕は呪われていない。いやマジで。
『シン』の評判はそれほど悪くないらしい。正直、エヴァンゲリオンの完結作というだけで、少なくともネット上では最大火力で焼かれると期待していたのだがそうでもない。
アスカがケンケンのものになったりしたのに。個人的にエヴァンゲリオンに好きなキャラはいないので(新劇ではトウジの妹ぐらいか。「エヴァにだけは乗らんとってくださいよ!」もなかなかだったが、シンジを撃とうとするときの台詞回しが面白すぎた)ちっともダメージを負わなかったが、人によっては天変地異だっただろう。上映前、アスカが描かれたパンフレットを全員に配布するのがまた、性格が悪い。
とはいえそのような前時代的オタクの怨嗟は多くなく、なんだか、「完結させてくれてありがとう」というような声が多いように見える。そんな謝辞の形もあるんだね。みんな歳を取ったせいかな。『シン』という『卒業式』で素直に卒業を受け入れられる人、なんだかんだ人生上手くいってるんだろうな……というね、気付きがね。
『シン』はあからさまな人間賛歌であり、それは諸々の都合上仕方なかったと得心するが、なんというか、それは他の作品で摂取するよ、と言いたくなる。王将で寿司食わされても、と言うか、五十嵐隆に『吐く血』のあと急に『さんぽ』を歌い出されても、と言うか……。それとも、エヴァが全ての人にとってエヴァは全ての価値観を網羅しなければならなかったのだろうか(それにしては、『シン』はエヴァが全ての人に厳しすぎる作風だったが)。
『大人になる』というメッセージがすんなり受け入れられているのも驚いた。僕はむしろ、現代社会における大人なる概念そのものの不在証明だとすら捉えられると思ったのだが、そういうわけではないのか。子どもが物理的に大人になるためには、ただ年を食えば良いが(無論、それだけで足りない要素も多いが)、『シン』における成長は、子どもから大人ではなく下層から上層だ。衆生からの解脱といってもいい。
……トウジが吐いた「大人にならざるを得なかった」「お天道様に顔向けでけへんようなこともした」という台詞の空虚さよ。結局それは空言にとどまり、汚い場面は大人の物語として描ききれなかったんだもんな。
我が子を棄ててなお世界を救うため自らを擲つ使命に心酔するミサトなんかは、まさに大人になった者の振る舞いではなく都合の良い視野狭窄へと覚醒した者の振る舞いだ。
彼女の幼児性は、我が子に『加持』リョウジと名付けたことに尽きる。葛城ではなく、加持。
一旦結婚して加持ミサトになり、そのあと加持が死んで苗字を戻して……というのも考えたが、加持が特攻した際にまだ子どもはおなかの中にいたとあったので、矛盾してしまう。出産時既に亡くなっていた加持への執着を子どもへの呪いとした。そうとしか説明が付かない。その上、自分で面倒を見るつもりはないんだから、なにかんがえてるの。
シンジと和解して大人になった……という感想を多々見たけども、ただ単にシンジが戦略に必要になったから、流れで贖罪しただけにしか見えなかった(それだけでも成長したという意見もあろうが、四十路だよ)。彼女は再び向き合えない存在を作り出した。何も変わっていない。
自分や周囲が嘘をつき通せると過信しているなら益々彼女は大人ではない。旧劇なら想定内の行動だが、新劇のルールでもなお、そうするのか。大人ってなんだ。
『新劇エヴァ』の大人はゲンドウからシンジまで、運否天賦と生得的な才能も含めて、独力でどうにもならない恩恵を受けた者が、受けられなかった者を切り捨てただけだ。それを大人になったと片付けるのは傲慢な合理化に他ならないのでは。
第三村での生存者たちの地道な生活を通じての綾波とシンジの成長? たった十四年で村社会が形成されたという作為が大人なのか。医者の真似事が大人なのか。何でも屋が大人なのか。外界からの支援物資に頼るのが大人なのか。十四歳に危険作業へ従事させるのが……。
やめよう。いつまで経っても終わらない。というか基本的にミサトにキレすぎてる。
そもそも『シン』で心置きなく旅立てる人は元々呪われてなかったような気がする。まあ、その辺も深淵なので素人の僕が口を出してはいけない。
ただし、世の才能人、一つ聞いてくれ。『現実に帰れ』というメッセージは、ある種の人間には死刑宣告であるし、広義においては分断を呼び起こす劇薬だ。もっと丁重に取り扱ってくれ。解放のつもりだったのかもしれないが、解放は即ち、新しい入牢だよ。
その意味で、第三村の下りは、本当に、本当に、アレは。
綾波が、ほとんどロボトミーのような勢いで、感情を、植え付けられていく、過程ときたら。シナリオの生贄になる、過程ときたら。
今はまだ公開当日なのでこのあとどうなるかは分からない。金曜ロードショーなんかで放映された日には消し炭になりそうな予感は正直ある。だって、単体で観たら意味不明ですよ。筒井康隆『モナドの領域』と同じで、作品と作者の歴史をある程度知っておく必要がある(とか言っておきながら前回、マリのキャラデザが作者の妻である事実を知らないなんて信じられない大ポカをやらかしたんだが)。
ただまあ、エヴァンゲリオンに囚われていたのは初日に会社を休んで観に行くような人々だったので、彼らが概ね満足しているのだったらそれでいいんじゃないだろうか。僕なんかは所詮新参。なので以下は変化球で攻めるというコスい真似をする。
『STAND BY ME ドラえもん2』に関する穏健なる提案
同じアニメ作品で去年盛大にしばき回されていたのが『STAND BY ME ドラえもん2』である。そもそも、第一作の時点で評判は芳しくなかったのだが、懲りずに続編が出てきたとあって、またしてもしばき回されていた。たぶん、観てすらいない人たちにほど生理的嫌悪感を催させただろう。
僕に関していえば『ドラえもん』、引いては藤子・F・不二雄の呪いはエヴァンゲリオンの万倍根深い。何せ人生で最初に読んだ漫画だし、『ドラえもん』全巻と短編集のほぼ全て、その他『T・Pぼん』など数作を収集済。そのうち全集を買い揃えたいが、置き場所に難渋しているところだ。
そんな僕だが、原作ファンをして「これじゃない」筆頭の『STAND BY ME ドラえもん』シリーズに関しては1の時点で号泣したし、『STAND BY ME ドラえもん2』に至っては友人のハンカチを借りてまで号泣してしまった。
この記事は、『STAND BY ME ドラえもん2』と『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は同根であり、故に『STAND BY ME ドラえもん2』もそれほど悪くないよ、と主張を展開しようとしている。同根だからという理由一点張りで擁護しようとするのは狂気の沙汰なので読まない方が良い。
とはいえ、『シン』の出来映えがベストだとは言えない。よって同根の『スタドラ2』についても、100%素晴らしいと称揚するわけではない。「『シン』がOKなら『スタドラ2』を受け入れてもいいんじゃないでしょうか」ぐらいの、穏健なる提案である。
細かいあらすじには触れない。『STAND BY ME ドラえもん2』の筋書きは、擁護派を自認する僕にしても厳しい。
ここで取り上げたいのは両者が帯びているテーマ性だ。『スタドラ2』と『シン』に共通するテーマ、それは『観客の追放』である。
ここで『劇画・オバQ』の話をする。『劇画・オバQ』は藤子不二雄(A・F両名)作『オバケのQ太郎』の後日談である。本編の設定とは微妙に差異があるため、自己パロディと解釈した方がいいかもしれない。
舞台は本編の十五年後。久しぶりに人間界へやって来たQ太郎はサラリーマンになった主人公、正ちゃんと再会する。そして以前のように居候するのだが、Q太郎の大食漢ぶりは家計を圧迫するシリアスな問題となる。正ちゃんの妻が愚痴っていたのを聞いて、Q太郎はご飯のおかわりを控えるようになる。
ある日、ゴジラ(ジャイアンポジション)の家で宴会が開かれる。当時一緒に遊んでいたゴジラやハカセ(出木杉ポジション……だが間抜けている)と一緒に飲めや歌えの大騒ぎ。昔のことを思い出す。例えば、無人島へ探検に出かけたことなんかを。
ここで酔っ払ったハカセが啖呵を切る。「自分の可能性を限界までためしたいんだ!!」「そのためにはたとえ失敗しても後悔しないぞ!」。
酔漢たちが涙ながらに乗っかる。「おれたちゃ永遠の子どもだ!」「この旗に集え、同志よ!!」。
無垢なQ太郎は酔っ払いの言葉を真に受ける。そして翌朝、「昨夜の話を奥さんにしてよ」と正ちゃんに催促する。一旦はその気になった正ちゃんだが、しかし妻に妊娠を告げられるや、夢物語など忘れて喜び勇んで会社に出勤していく。一家の大黒柱として。
Q太郎は悟る。「正ちゃんはもう、子どもじゃないってことだな……」。そして別れの挨拶もせずに何処へともなく飛び去っていき、物語の幕が閉じる。
この筋書きで、追放されたのはQ太郎である。悲しいかな、大人になった正ちゃんたちは以前と同じように、無人島に上陸し、はしゃぎ回るような体力も感性も持ち合わせていない。たった一人、以前と同じようにご飯を二十杯もおかわりするQ太郎に、大人のコミュニティでの居場所はないわけだ。現実的な話である。
僕は『スタドラ2』でQ太郎になった。何故なら『スタドラ2』は作中人物でなく、観客を追放しようとしているからだ。
『スタドラ1』でしずかちゃんと結婚することになったのび太は、結婚式当日に逃亡する。曰く「しずかちゃんを幸せにする自信がない」からだ。この時点で、特に既婚者は「舐めてんのか」と唾棄する具合だったが、まあ、のび太の悩みは誠実だと受け取れなくもない。そんな誠実さ、婚姻で必要なのかはともかく。
こののび太をなんだかんだして『大人にする』のが『スタドラ2』の筋である。おばあちゃんも登場するのだが、敢えて触れない(というか、流石におばあちゃんの扱いには閉口してしまった)。
重要なのは、大人ののび太にはもはや、ドラえもんという相棒は存在しないということ。そして、のび太はドラえもん以後の世界を、不器用ながらも生き抜こうとしているということだ。
この点は原作と同様である。原作では、ついでにのび太の近眼が治っていたりする。近眼が治るって、地味に夢があるよね。
ここからパラノイアックな妄想に入るので、引き返すなら今のうち。
『スタドラ2』はスネ夫が用意してくれた盛大な披露宴を通して切実に問いかけてくる。「のび太は未だ子どものような弱音を吐くけれども、最後には前を向いた。しずかちゃんという最高の伴侶と共に歩むと約束し、ジャイアンやスネ夫という心の友もいる。披露宴には学校の先生まで出席してくれて千客万来だ。ところで、お前はどうだ?」と。
「お前はどうだ?」。この部分、まったく僕の被害妄想なのだが、大人がドラえもんを観る場合には、少なからず自分の童心を呼び覚まし、そのうえに大人の感性を塗りたくって観賞しなければならない。
あの頃には戻れない。僕は僕で人生を前に進めなければならない……。
このメッセージ性、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が提示したラストと全く同じだと思うが、どうなのだろう? 『シン』がエヴァンゲリオンとの別れ、卒業を示唆したのと同様に『スタドラ2』はドラえもんというコンテンツに対して、少なくとも見方を変えろというようなメッセージを含んでいるような気がしてならない。
エヴァンゲリオンは『Q』から『シン』までに九年待たせた。旧劇から新劇まで全て合わせても二十五年だ。片や、ドラえもんが初めて世に放たれて五十年以上。大山のぶ代によるアニメが始まって四十年以上。水田わさびになって以降でさえ十五年以上。放送枠こそ土曜日になったが、毎週チャンネルを合わせるだけで今でもそこに現れる。半永久的に『終わらない』。果たして『呪い』の名にふさわしいのはどっちなのか。
無論、違っている部分も多くある。
まず、作品を通じての作者へのアクセシビリティである。『シン』の感想を見渡していると、皆当たり前のように作者=庵野秀明の名を出してくる。それも、「庵野が生み出した作品の出来」より「庵野の精神状態」が論われている。それはエヴァンゲリオンが私小説的であると広く認識されているからなのだろう。あらゆる創作者が自分自身を明かせなくなった時代で、なんて幸せなヤツだ。みんな我慢できなくなってTwitterとか始めちゃって旧来のファンを幻滅させている時代に、なんて、なんて幸せなヤツだ。この時代に私小説が多くのファンを熱狂させるんだよ。それどころか、自分の情緒とともにエヴァンゲリオンを弔おうと、葬列に参加してくれるんだよ。なんて、なんて、なんて幸せなヤツだ。
ネット上の感想を見るに、「シンジが大人になってよかった」というのが多くある。エヴァンゲリオンのファンはシンジと自分を少なからず重ね合わせているのだろう。主人公に感情移入するって、滅茶苦茶当たり前のことを言ったな。
前も書いた通り、第三村の経験ごときで快復できるほどシンジの病状は軽くなかったはずなのだが(普通の人間はたかが一ヶ月の過労で死ぬし、たかが一ヶ月上司に詰められてうつになっただけで快復に数倍の期間を要する。孤絶と喪失を繰り返したシンジは、今回の人生を諦めなければならないほどの深傷を負っていたっておかしくないのだが)、彼がみるみるうちに「大人」になったのは多くの人にとってそれほど違和感を覚えるイベントではないのかもしれない。だって、シンジと重ね合わせていた自分は、もうすっかり「大人」になったのだから。そういったファンにとってシンジは治療を要する患者ではなく、ありふれた幼い者だったのだろう(そもそも、エヴァンゲリオン自体がシンジの患者性を他者が頑なに認めようとしない不条理劇である。旧劇と『シン』ではベクトルこそ異なるが、底流は同じだと思う)。
翻って、ドラえもんを観ながら藤子・F・不二雄の名、或いは自分の名を出すのは難しい。『ブリキの迷宮』にてドラえもんが、回路が焼き切れるまで電流拷問を受けた挙句に海中投棄されるシーンがあって、少年時代の僕はいたくショックを受けたのだが、これをもってして『藤子・F・不二雄のサディズム』とか言い出すヤツはいない……はず。もちろん、多くの人は電流拷問を受けたこともないし、そもそものび太と自分を重ねたりもしないはずだ(作者である藤子・F・不二雄は「のび太は僕自身」と言っているが、共感しづらい。のび太、及び藤子・F・不二雄のパーソナリティは極めて特異であると思う)。
ただ、こういった差異は僕にとって些事である。要するに観客がどのように捉えるか、個々人がどのように読解するか、という問題なので、僕はドラえもんを読みながら、「これを描いている作者」を想像するという出歯亀の如き悪趣味に大昔から勤しんでいる。そういう僕にとって、『ドラえもん』、またそれを改変した『スタドラ2』から私小説的成分を抽出(という名の妄想)するのはさほど難しいことではない。
私小説的成分はあらゆる作品に存在すると、百歩譲ってもらったとしても相互理解の道のりは旧エヴァ並みに困難を極める。
最大の相違点は、『シン』は作者による完結だが、『スタドラ2』は作者亡きあとの、二次創作といって過言ではないという点だ。僕もこの点は決して見逃せないと思っていたが、最近ちょっと考えを変えた。
そもそも藤子・F・不二雄が最後に手がけた『ドラえもん』は『ネジ巻都市冒険記』であり、もう二十五年近く前である。以降の『ドラえもん』は、少なからず二次創作的といえる。アニメに関しては元々作者があまりタッチしていなかったようだが、それでも声優が交代し、世界観を若干歪めながらも存続している。もうじき、藤子・F・不二雄の手による『ドラえもん』を藤子・F・不二雄不在の『ドラえもん』が超える。
今この世に存続しているのは全て二次創作なのであり、その点で殊更『スタドラ2』だけがやり玉に挙げられるのは違和感がある。
エヴァンゲリオンの方も旧劇と新劇、とりわけ『シン』では明らかに作者のメンタルが変遷している。『オバケのQ太郎』と『劇画・オバQ』の関係性同様に自己パロディ、自己否定に根差しているのは明らかで、その点で新劇は旧劇の二次創作と言える。言えるということにしておいて。
いや、分かる。『新劇エヴァ』が旧エヴァを踏襲しつつ新たな軸を提示したのに対し、『スタドラ2』は原作との距離感を決定的に見失っている。見た目もそうだが、原作の泣ける話を改竄して繋ぎ合わせるのは、控え目に言って上品ではない。ただ、僕ぐらい重症になるとメタ的な事情をゼロイチで判別してしまう。だから『シン』と『スタドラ2』は同様に『現実への回帰』を謳う作品であると思うし、その点における深度はさほど変わらないのではないかと疑ってしまう。誰か助けてほしい。
故に、『シン』によるエヴァからの半強制的な卒業宣言が受け入れられるならば、『スタドラ2』が特段嫌悪される謂われもないのではないか。
……とは言え、僕が詭弁を弄して世間の評判が変わるわけではない。そもそも僕が『シン』で一切泣かず感傷に打ち震えることもなく、『スタドラ2』でギャン泣きしたのは、僕がエヴァンゲリオンではなく藤子・F・不二雄に呪われたからだ。僕を追放したのはエヴァンゲリオンではなくドラえもんだった。こんなヤツ自体が少数派である。
あまつさえ、そう仕組んだのは作者本人でなく山崎貴という他人だった。これがまた僕の涙腺を刺激した。「俺はドラえもんを使ってこういう映画ができる。お前はどうだ?」というように、頭にアルミホイルを巻いていなかったせいで、聞こえてきたのだ。僕は『スタドラ』的な二次創作に憤りこそすれ、何一つ『ドラえもん』をリスペクトできない無能のままである。ただただ消費するばかり。
僕は決して『ドラ泣き』の戦法に嵌められて泣いたわけではない。ただただ自分の無能に泣いたのである。なんて汚い涙だ。
逆にいえば、もしも僕が四半世紀にわたってエヴァンゲリオンに狂っていれば、『シン』を観て号泣し、noteなんて書いていられる精神状態ではなかったかもしれない。これは完全な推測だが、もし僕がエヴァンゲリオンという物語に参加してしまっていたら、たとえ作者が離脱したとしても、『シン』を契機に卒業する、なんて器用な真似はできなかっただろう。『シン』は、いわば別れの手紙だった。心の準備ができている者は忸怩たる思いを抱えながらも受け取れるだろう。しかし準備ができなかった者は、綾波にウォークマンを渡されたシンジよろしく、投げ捨てる他に心を守る手段がなかったのではないか。
『シン』と『スタドラ2』のもう一つの共通点は、作り手が想定している客層以外には厳しすぎるということだ。『シン』の観客はエヴァンゲリオンへの思い入れを和らげておき、なおかつ自分の人生を用意しておかなければならなかった。『スタドラ2』もまた、ドラえもんを涙で消費する気持ちでなければ安易に手を出して良い代物ではない。
エヴァンゲリオンが刺したのは多感な少年少女(とオッサンオバサン)であったのに比べ、ドラえもんが刺したのは子どもだったというのも違いの一つだ。そもそもエヴァンゲリオンに関しては「いい加減卒業させてくれ」という人も多かっただろう。しかしドラえもんはそうではない。卒業などという儀式を行わずとも自ずと心の中に仕舞える思い出だし、それが奇妙な形で掘り起こされるのは気分のいい話ではない。
人間、青春からの卒業は自覚的に行えるが、童心からの卒業は特段に困難であるし、しようとも思わない。青春は立ち去る物語であり、童心は立ち寄る物語だ。だからこそ童心を破壊しようとする『スタドラ2』は忌避されたのかな、と推測する。
ただ、藤子・F・不二雄に狂った人、というのはエヴァンゲリオンほどではないにせよそれなりにいるはずだ。異色短編というフックがまた、そうさせて然るべきだ。そういう人ほど、『スタドラ』を観てほしい。責任は取れない。
もっと本質的な問題……。そもそも『シン』は作者が意図的にエヴァンゲリオンとの決別を表現しているのに対し、『スタドラ2』にそのような自己否定的文脈はまったくなく、ただ『ドラ泣き』を目指した結果、ああなっただけじゃないのか?
まったくその通りだと思う。この八千字、まるごと被害妄想ですよ。良くないタイプの。人間、こうはなりたくないねえ。
ただ、山崎貴という人は『ドラゴンクエスト』の映画でも同じように『現実回帰』に重点を置いていたと聞く。そもそもドラクエに造詣がないので映画を観賞することも今生ないのだが、もし聞いたとおりなのだとすれば、統一的な意図があるとしか思えないのだよな。無意識的な作風だとしたら、それはそれで大したもんだ……。
前回も書いた通り僕自身、『エヴァンゲリオン』からの卒業はやぶさかでないが(入学していたかも怪しいが)、『エヴァ的な作品』から卒業するつもりは一切ない。それは藤子・F・不二雄的な作品に対しても同じだ。
最後に一つ自戒しておく。『エヴァ』の話はもうしない。『ドラえもん』の話は、する。
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