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インクルーシブな学校・学級づくりってどういうこと?〜映画『みんなの学校』から考えたこと〜

普通の子なんてどこにもいない
発達障害という言葉で括ってしまうことは、思考停止を招きかねない

「みんなの学校」の舞台である大空小学校、その初代校長である木村泰子さんが講演会で声を大にして言われた、そんな言葉が印象に残っています。

私自身、過去には「特別支援教育」についてこんな記事を書いていました。

そんな「特別支援教育」についての考えが大きく揺さぶられる体験となりました。
今回の記事では、小学校教員である私が映画『みんなの学校』の上映会・木村泰子さんの講演会に参加して、「インクルーシブ教育」について考えたこと書き進めていきます。

1.『みんなの学校』の舞台

映画『みんなの学校』の舞台となるのは大阪市住吉区にある大空小学校。
公立の小学校です。(以下、大空小学校のプロフィール文

大阪市住吉区にある公立小学校。教職員は通常のルールに沿って加配されているが、地域の住民や学生のボランティアだけでなく、保護者らの支援も積極的に受け入れた「地域に開かれた学校」として、多くの大人たちで見守れる体制を作っている。
学校の理念は「すべての子どもの学習権を保障する学校をつくる」であり、不登校はゼロ。唯一のルールとして“自分がされていやなことは人にしない 言わない”という「たったひとつの約束」があり、子どもたちはこの約束を破ると“やり直す”ために、やり直しの部屋(校長室)へ。
他の小学校で、厄介者扱いされた子どもも、この学校の学びのなかで、自分の居場所を見つけ、いきいきと成長。また、まわりの子どもたちも、そのような子どもたちとのかかわりを通して、大きな成長を遂げていく。
学校を外に開き、教職員と子どもとともに地域の人々の協力を経て学校運営にあたるほか、特別な支援を必要とされる子どもも同じ教室でともに学び、育ち合う教育を具現化した。

大空小学校には特別支援学級がなく、どの子もクラスの中で一緒に生活し、学びます。
特別支援学級があることが当たり前の環境で働いている私にとっては、大空小学校の様子が”違和感”(あえてこの表現を使います)として受け取ってしまいますが、木村泰子先生の言葉を借りるのであれば、「当たり前の違い」があるだけ。

今回の上映会では、上映前にそんな言葉を聞いていたこともあり、大空小学校で起こっていたことを割とすんなり受け入れることができたようにも思います。

下記の公式サイトには、今後の上映会スケジュールも掲載されていますので、ご興味のある方は覗いてみてください。

2.インクルーシブ教育について考える

そもそもインクルーシブ教育とは、どんなものなのでしょうか。
「インクルーシブ(inclusive)」は「包摂(ほうせつ)的な、すべてを包み込む」という意味とされています。
近年、「インクルーシブ(共生)社会」が求められており、そのための教育として「インクルーシブ教育」が推進されているようです。念のため、定義を調べてみると、

「すべての子どもを包摂する教育」のことで、障害がある、性的マイノリティである、外国にルーツがある、ヤングケアラーの子どもなど、多様な子どもがいることを前提として、すべての子どもの教育の保障を目指すものです。

ユネスコ(国連教育科学文化機関)

とされています。(詳しくは、こちらの記事がとても参考になります。というか、私の記事なんかより、よほどためになります…笑)

講演会では、2022年9月の国連からの日本政府への勧告をもとに、日本の「特別支援教育」が、障害のある子ども達を「排除」することに繋がっていると捉え、インクルーシブ教育を本当の意味で進めていくことの必要性を説かれていました。

3.「インクルーシブ」の視点で学級経営を振り返る

今回の上映・講演会を通して、個人的には雷が落とされたような感覚になりました。「インクルーシブ教育」に対する自分の理解の甘さを感じるとともに、これまでの当たり前が見事に崩された気がしました。

それと同時に、「とはいえ…」とこれまでの子どもとの関わりを正当化しようとしている自分もいることに気づきました。

あまり詳しいところまではお伝えできませんが、「イライラして机や壁を蹴ってしまったり友達に手を出してしまったりする、大声を出して授業を妨害してしまう」という行為に対して、保護者もそうしてくださいと言っているからといって、保健室などの別室に移動するように促していました。
(細かいニュアンスが伝わりづらく申し訳ないのですが、追い出しているという意味ではなく、クールダウンのためということをご理解ください…)

木村先生は講演会の中で、インクルーシブを進めたことで子どもたちの当たり前が変わっていくことを、以下のような例を使って話されていました。

大空小学校に異動したての先生が、どうしても授業中に大きな声を出してしまう子に対して「〇〇さん、しー!」と静かにすることを求めたところ、周りの子どもたちが「なんで今、しー!って言うたん?」や「〇〇さんが声を出していることと、俺らが集中できないっていうことは関係ないやろ?」と言われてしまった。

この話を先ほどの自分の例に照らし合わせると、私の教室では「周りに迷惑をかけてしまうと、みんなと一緒には学習できない」ということを、無意識のうちに子どもたちに感じさせてしまっていたのではないかと反省しました…

4.教師に求められることとは


普通の子なんてどこにもいない
発達障害という言葉で括ってしまうことは、思考停止を招きかねない

改めて、その言葉の意味を考える必要がありそうです。

木村先生は他にも
「あの子はグレーだ。」「黒に近いグレーだよね。」

そんな言葉に対する違和感も指摘されていました。

最初に紹介した「特別支援教育」について考えた過去の記事でも、「普通」や「特別」のようなラベルを安易に貼ってしまうことの問題について考えていたことを思い出します。

私自身も現状のシステムで学級担任である以上、特別支援学級の子どもたちもクラスの一員として学級づくりをしていく必要がありますし、「あの子は来年から特別支援学級に行った方がいいのではないか」というような問題とも向き合わなければなりません。

その度に、今回の体験を通して感じたモヤモヤと付き合っていかなければいけないようです。
今のところ何が正解か、全くわからないのですが、過去の記事でも書いたように、自分の何気ない言葉や行動、教師としての在り方や立ち振る舞いが子どもたちに大きな影響を与える(与えてしまう)ということには変わりないと思っています。

そんなことを日々考えながら、過ごしていきたいです。

そういえば、読みたいと思っていた岩瀬先生のインクルーシブ本。
この記事をきっかけに手に取ってみようかなぁ。

おわりに

今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
まとまりのない記事ですが、読んでくださった方々が「インクルーシブ教育」について、少しでも考えるきっかけになれば幸いです。

こちらは記事の中でも紹介した、School Voice Projectさんと、カタリスト for eduさんのコラボ記事です。とてもわかりやすくまとまっているので、ぜひご覧になってください。

また、国連の日本政府に対する勧告については、こちらの記事を。

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