真人間には運動が不可欠
真人間には体力が必要だと前に書いた。
しかし、真人間を生きれば生きるほど、運動そのものが必要になってくる。
この辺りのことを話そうと思う。
動物としての人間の時は、何もしないでも本能が生きさせてくれる。しかし、真人間は、意思によって生きる時期だ。
それが真人間の醍醐味でもあるが、ここで一つ大きな問題が出てくる。
意思で生きるということは、観念、つまりバーチャルなものを頼りに生きるということになる。
真人間は、本心からしたい事をする。それも、何の制約も受けずにする時期だ。
ここで、何の制約も受けないというのは、人を害することや迷惑になることも構わずにやるという意味ではもちろんない。
見栄や外聞はもちろん、いわゆる忖度等に縛られないし、社会通念からでさえ他人を害するものでない限りフリーになるし、ならざるを得ない。
しかし、これをやり続けていると、当然のことながら、いわゆる常識からずれた考えを持つ様になりがちだ。
当然、自分の考えが正しいものであるか、妥当なものであるか真剣に、且つ繰り返し検証はする。
それはそうだ。
真人間を生きるのは、常に生き死にがかかっている。間違った考えや妥当性のない考えを頼りに生きるわけにはいかない。そんな悠長な事をしている余裕はないのだ。
同じ感性を持ち、意見を交換したり、議論できる仲間がいればいいが、原則自分一人だ。なぜなら、死神との戦いはとどのつまり一人でするものだから。
必然的に孤独になる。
孤独だけなら、構造上仕方ないと諦め受け入れる。
しかし、考えの正しさとか、妥当性についての疑問については悩む。
深く、遠くに行けば行くほど、これは感じる様になる。
自分の考えは間違っていまいか、妥当性は維持できているか、そもそも頭は正常に働いているのか。
こんなことを考え始めると、夜も眠れない・・・なんてことはない。私は眠くなったら眠るし、大抵眠くなる。
これの対処法は、論理的整合性を検証するとか、洞察力が甘くなってないかとかのチェックとかでは、形がつかない。
もっと、肉体的な確信がいる。
そのために手っ取り早く、なおかつ最強の方法といえば、運動することなのだ。
運動して、体の中から湧き上がってくる根拠のない自信、これが必要だし、有効だ。
だから、真人間にとって運動は、単に体の調子を整える以上に、真人間たらんとする基盤を提供するものとして、必要不可欠なのだ。