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Let it go =バカボンのパパ思考
ディズニー映画「アナと雪の女王」観ましたか?
私は、まだ観ていなくてこれからです。ただ当時でも、挿入歌「Let it go」はよく耳にしていました。素敵な歌詞ですよね。元気をもらえるような、前向きになれる歌詞。
ところが、先日。
英語の歌詞を邦訳していらっしゃるブログを見つけて、それを読み始めたら急に涙がだぁーだぁー流れ始めました。なんだか刺さってしまって「久しぶりに泣いてる⁈」とスッキリさせてもらい、涙活になっちゃってました。
おかしいな? 何が違うんだろう?
どちらの歌詞も見比べてみて、どちらが本当とかはないなと私は思うのです。たとえば「Let it go」を「ありのまま」ではなく「これでいい」と訳されていました。ね、バカボンのパパでしょう? 「これでいいのだぁ〜♪これでいいのだぁ〜♫」。じゃなくて、何か違いますね。うまく言えないけれど。どちらも「それぞれに」としか言いようがないと思うのです。
そもそも翻訳というのは、どうしてもズレがつきものです。かつて図書館で、翻案小説と翻訳小説との違いとか、主体と客体とか、写実とはとか。そういう評論ばかりを読んでいる時期がありました。どんなに忠実に訳したところで、原作者とは別の人が訳す、あるいは、異なる言語で訳すので、何かが欠けたり入り込んだりします。翻訳ソフトなら翻訳ソフトの製作者や機械特有の仕様により、欠けたり入り込んだりします。もっと言えば、それ以前に、原作者も「本当の自分て何?」みたいなところもあって、機械ではないので人間の心の揺らぎの中で創られているはず。金太郎飴だって、よく見れば、いろんな顔をしています。そういう、ズレの集合を文化というのかも。
これを喩えてみるなら、揺れるおじいさんの手から、揺れるおばあさんの手に、グラスの口すれすれまで注ぎ込まれた café au lait glace が手渡されるのを想像してみてください。
あのグラスの中で、パキッと上下に分かれたカフェの焦茶とミルクの白。その真っ二つに分かれている綺麗な境界線が、揺れるおじいさんの手にあるところからして混ざりはじめます。そして、おばあさんに手渡されようとする。その移動途中で、大きく揺れたりして。カフェがグラスから溢れたりして。
そして、揺れるおばあさんの手に渡った後も、そのおばあさん流の手の揺れ方で揺らされて、再び境界線は混ざります。おじさんの揺れ方とは異なる、おばあさんの揺れ方で混ざります。
そうやって、XやらYやらを交えながら移動しつつ、最初の形は大なり小なりどんどん異形化する。どの段階においても変化し、元には戻らないのです。
そして、今まで聴いていた訳とは違うと感じた私も、この映画が興行されていた時とは異なります。
雪の女王エルサが、雪の女王だからこそ、バカボンのパパの腹巻きをして「これでいいのだ〜」と歌っている方が、私は泣けたのです。まったく…どの琴線に触れたのか。わかったらまた記事にしたいと思います。