01北海道

徒歩で日本を縦断した話 (上)

甲板に登って風を感じていると、停泊していたフェリーが与論島を出発した。「もうすぐだ」高まる感情を抑えきれず、一人そう呟く。
あと数時間もすればフェリーは那覇港に到着し、僕の旅も終わりを迎えるだろう。もう毎日30km以上も歩かなくていいし、野宿をする必要もない。スマホの充電残量を気にしなくてよければ、コンビニの菓子パンに頼っていた食生活ともおさらばだ。だけどなぜだろう。ちょっぴり寂しいような気もする。明日からまた”普通の生活”に戻るのだ。頭の中を83日間の思い出が走馬灯のように駆け巡った。

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2018年6月。のっぺりとした灰色の雲が京都の空を覆い、梅雨の到来を物語っている。「なんか楽しいことないかな」誰にも聞こえない声で呟いてみる。僕は大学4年生で今日は1週間に1度しかない大学の講義に出席していた。教授が早口で教鞭を執るかたわら、僕はノートも取らずただぼんやりと外を眺めていた。僕が欲しいのは単位ではなくて、高揚感だった。心の奥底から湧き出てくるような刺激を体が求めていた。ここのところずっとこの調子で、自分の中で飼い慣らしてしまった乏しい想像力にどうにか翼を授け、残り9ヶ月と迫った卒業までに一風変わった思い出を作ろうと企んでいた。この企てに関して各方面に知恵を借りようと試みたものの、みな口を揃えて「大学生のうちにしかできないことをやっておけよ」と言うばかりで、そもそも考える気などないらしい。僕も僕で「大学生のうちにしかできないことなんてないよ。僕らはいつでも自由なんだから」と恥ずかしいくらい大学生活に平和ボケした暢気な発言を繰り返していた。それでも辟易するほど聞かされた「大学生のうちにしかできないこと」なるものがあるのなら、いったいそれはどんなだろうかと日に日に考えるようになった。そしてその答えに辿り着くころには梅雨も終わり本格的に学生最後の夏が訪れようとしていた。

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夜の闇が迫る頃、僕は室町通を南へと下っていた。丸太町通まで出ると下宿はすぐそこだ。ふと立ち止まり大きく息を吸い込んだ。当分京都の空気を吸えないと思うと幾分かこの街への愛おしさが増したが、それは夕暮れ時の空気がものさみしいからなのかもしれない。結局僕は学生最後の夏をひたすらバイトに費やした。2ヶ月では雀の涙ほどの貯蓄しかできなかったが、楽観的な性分ゆえになんとかなるだろうと考えていた。僕は日本縦断の旅に出ることにしたのだ。35Lのバックパックにテントと寝袋、数着の着替えを詰め込んで、北は北海道から南は沖縄まで、陸地は歩いて、海はフェリーを利用して縦断する。すなわち、主な交通手段は”徒歩”である。「大学生のうちしかできないこと」とは、「体力がある今しかできないこと」でしかないように思えたのだ。当時から1年経ったいま考えてみると想像力に翼が生えた飛躍的なアイデアというよりも、浅はかで想像力に乏しい稚拙なアイデアだと認めざるを得ない。しかし、当時は誰も考えつかないようなすごいアイデアだと自慢げだった。もちろん友人からは「ほんまにやるん?伊能忠敬かよ」と突っ込まれたが、それすら賞賛の声に聞こえていた。救いようのない阿呆である。そして、今日は阿呆な伊能忠敬になる前日で、仲のいい友人に旅立ちの挨拶に出向いていたのだった。下宿に到着すると、いよいよ明日に迫った旅立ちに期待を膨らませ、僕はさっさと床に就いた。

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2018年9月16日。僕は北海道新千歳空港にいた。今日から毎日、沖縄県那覇空港を目指して歩き続ける。基本野宿で、毎日30km以上歩き、年内には旅を終わらせる。決められたルールはそれくらいだった。
新千歳空港は約1週間ほど前に甚大な被害をもたらした北海道胆振東部地震の影響で閑散としていた。こういった状況で日本縦断などしても良いものかと葛藤したが、自粛こそ道民の方々に対して失礼な気がして元気よく歩くぞと心に誓った。しかし、その心意気、あるいは初日ゆえの活力は空港を出て歩を進めること30分で根こそぎ削られることになった。如何せん北海道、道が果てしないのである。今日の寝床を探そうにも一本道の国道は両脇から木々が密林のように生い茂り、テントが張れそうにない。僕はひとまずGoogleマップで発見した11km先の小さな公園を目指すことにした。およそ10kgにもなる大きな荷物を背負い、北海道の広大な一本道、車しか通らない国道を歩く。精神的にも身体的にもダメージは大きかった。例の公園に到着する頃にはすっかり太陽が沈み、さすが北海道といったところか残暑が厳しい京都に比べ、うすら寒い風が肌をそっと撫でていった。向陽台公園と名付けられたその公園は野宿をするには申し分のない広さがあり、近隣住民の方々からも見えない程度に木が繁っていた。しかし、初めての野宿ゆえに夕闇に対する漠然とした恐怖が心を支配し、なかなかここで野宿をする決意ができなかった。結局近くにあったセイコーマートの隣の空き地で寝袋に包まり夜明けを待った。

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人生で初めての野宿はセイコーマートの横の空き地で。テントを張ったら近隣住民の方々に不審がられてしまうと思い、寝袋だけで寝た。

目覚めは早かった。充足な睡眠とは言えなかったが、本格的に旅が始まる高揚感からか頭は冴え渡っていた。
僕は道案内をもっぱらGoogleマップに頼ることにしていて、どうやら順調にいけば10日ほどで北海道の最終地点、函館まで辿り着けるらしい。「なんだ余裕だなあ」この後にどれほど辛い日々が待ち受けているかも知らず、僕の毎日30km生活が始まった。

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北海道に到着して2日目。僕は生い茂る木々からこぼれる木漏れ日を浴びながら、森の中をひたすら歩いていた。いわゆる林道と呼ばれるこの道を行けば、日本でも有数な水の透明度を誇る支笏湖に到着するらしい。今日はその湖のほとりで野宿をしようと考えていた。途中、大木が倒れ、道が塞がれていたり(これも地震の影響だろう)、Googleマップが指し示す道が小川を横断するルートになっていたりと、行く手を阻む障害が多々あったが、旅の醍醐味だとして概ね楽しみながら進んでいった。

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たくさんの試練を用意してくれていた林道。街の人に後から聞いた話だが、この林道はヒグマがよく出没するらしい。生きて帰れてよかった。

林道を出て歩くこと、1時間ほどだろうか。とうとう支笏湖が姿を見せ始め、僕はその限りなく純に近い青色に半ば引き寄せられるようにして、歩調が早まっていった。出し惜しみするかのように湖を覆っていた木々がなくなり、視界が開けていく。するとすぐに大きな湖が眼前に現れた。澄み切った水は風に吹かれ小さく陸に押し寄せて返っていく。僕は背負っていたバックパックを地面に下ろし、体を投げ出すようにして地面に寝そべった。ついでに旅すら投げ出してしまおうか。それもいいなと思った。僕はこの時、言葉では言い表せないほど自由を感じた。小学生の頃、自転車に跨って親には内緒で自分が住んでいる町から飛び出した時のような胸の高鳴りを思い出した。しかし、今日はもう少し歩かねばならない。ふと我に帰り立ち上がると、疲労ゆえの体のだるさは無くなっており、どうやらまだ歩けそうだった。そのまま支笏湖に沿って、僕は西へ西へと歩を進めていった。
僕はその日、支笏湖のほとりにテントを張り、日が沈むと同時に寝る準備を整えると、そのまま気絶するように眠りに落ちた。

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2日目にして初めてテントの中で眠りに落ちた。強い風により湖から水飛沫が飛んできて、夜中に何度か目覚めたが、疲労のおかげかよく眠れた。

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僕は完全に北海道をなめていた。京都を歩けばほんの数秒で見つけられるものがここにはないのだ。コンビニである。僕は朝からずっとコンビニを求めていた。いや贅沢は言わないからせめて自動販売機でもあってくれと、その道を曲がったら、自動販売機に抱きしめられたいと、何度願い、そして裏切られたことか。3日目の朝。僕はまだ薄紫色をした空がこの世界を見下ろしている頃に目を覚まし、支笏湖の水を飲み、以来、何も口にしていなかった(ちなみに湖などの水はキツネの尿が含まれている可能性があるから飲まないほうがいいと後々聞いた)。どうやら北海道は街と街の間隔が長く、それを繋ぐ道路は交通以外の役目を果たそうとしないらしい。つまり、道は道以外の何物でもなく、車が通るだけのものである。スーパーはおろか、コンビニや自販機すら一向に姿を見せてくれなかった。時刻は13時を回り、いよいよ体は限界に達していた。もうヒッチハイクでもして全てを終わらせようか。そんなことを考えながら、ぼーっと歩いていると、大きな看板が目に飛び込んできた。「きのこ王国」。きのこはあまり好きではなかったが、その看板を見た途端、口の中に唾液が溢れ出し、気付いた時には体が勝手に走り出していた。お店に入ると地元の名産品を生かしたお土産屋さんとレストランが併設されており、道の駅と言っても差し支えないほど、充実した品揃えだった。贅沢してレストランで定食を頂こうか、あるいはここは我慢して120円のパンで済ますべきかとうろうろしながら考えていると、後ろからすみませんと声をかけられた。振り返ると30代半ばくらいだろうか、髪の毛を金色に染め上げ短髪で切り揃えているおしゃれな男性がニコニコしながら立っていた。「日本一周してるの?」金髪の男性は興味津々で僕に尋ねてきた。僕は半分あってるけど半分違うなとぼんやり考えながら、人に話しかけられたのが嬉しくて、「歩いて日本を縦断しようと思っています」と元気よく答えた。金髪の男性は驚いた様子で「おお、すごいね」と褒めてくれた。そして、「何かご馳走させてよ」とレストランの方向へ歩いていった。僕は申し訳ないという気持ちから出発した感謝の気持ちを抱えながら、その男性に付いていった。天ぷらの盛り合わせにチャーシュー、豚丼にきのこ汁を奢ってもらい、お腹よりも先に、感謝の念で心が満たされた。北海道は苫小牧市で美容師をしているという金髪の男性は終始ニコニコしていて、僕の日本縦断を心の底から応援してくれているようだった。僕はゴールを果たしたらこの男性に報告したいと思うようになり、この心情の変化は、自分のために目指していたゴールが、誰かのために目指すものとしての意味を持った瞬間であった。僕と金髪の男性はFacebookを交換し、固い握手を交わして、別れた。今後この男性はSNSを通じて幾度となく激励のメッセージを送ってくれた。そしてその度に僕は折れそうな心をギリギリのところで持ちこたえ、一歩ずつ沖縄へと近づいていくのであった。

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一歩進むごとに額から汗が流れ落ちていく。先ほど飲んだ水がそのまま噴き出しているのではないかと思う。それほどまでに暑い陽射しが体全身に照りつけていた。日本縦断を初めて6日が経ち、足腰も毎日30km歩くことに慣れてきていた。今日は長万部町という交通の要衝として栄えていた街からのスタートであった。運がいいことに長万部町ではたまたま夜ご飯のために入ったカレー屋さんの主人に声を掛けてもらい、家に泊めてもらっていた。久しぶりに布団で眠ることができ、心身ともに良好だった。
額の汗を拭いながら、一歩、また一歩と歩き進めていると、工事現場で働くおじさんに怪訝そうに声をかけられた。「あんたも日本一周しとるんかい?」僕は誰を引き合いに出しているのか理解できず、「あんたもってどういう意味ですか?」と質問で返してしまった。「ちょうど今さっきなんだが、あんたと同じくらいの若い子が歩いて日本一周してるっていうもんだから、もしかしてあんたもそうなのかと思ってね」僕はおじさんの話に驚きを隠せず、「え、その子はどれくらい前にここを通過しましたか?」とまたもや質問で返答をしてしまった。「もう本当に今さっき...」僕はおじさんが喋り終わる前に「ありがとうございます」とだけ伝え、走り出した。僕と同じ年代の青年が日本を一周しているだって!しかも徒歩で!僕は体が震え上がるほどの喜びと、かつてないほどの好奇心に支配され、見えない背中を追った。途中、工事現場のおじさんに僕は日本一周ではなくて日本縦断をしているのだと訂正しておいた方が良かったかなとチラリと考えたが、見えない背中を追っているうちにすっかりおじさんのことは忘れていた。
走りと早歩きを織り交ぜながら、先を急ぐこと30分以上経った頃だろうか。大きなバックパックを背負った、およそこの道路には似合わない格好をした青年の後ろ姿を視界に捉えた。彼だ。僕はその日一番の全速力で、暑さも忘れて走った。青年に追いつくと息を整えてから青年にゆっくりと話しかけた。「あの、徒歩で日本一周してるんですか?」青年は驚いたように振り返った。眼鏡をかけた童顔な青年は僕より幾分か若く見えた。「いや、ちゃいます。徒歩で日本縦断してます」僕はその回答を聞くと体の芯から熱くなるような喜びを感じた。仲間がいた!「実は僕もなんです」そう答えると眼鏡の青年は口角をクッとあげて「ほんまですか!」と喜んだ。僕たちは十数年来の友人と久しぶりに再会したかのように喜び合い、これまでの道のり、これからの行き先、そして旅の大変さと楽しさを語り合った。彼は大阪出身で僕の一つ下、つまり大学3年生で休学を申請し、日本を縦断しているらしい。そして徒歩で日本を縦断する旅人は一定数いるらしいと彼(名前は弘成といった)との出会いで知り、僕はいかに自分が井の中の蛙であったかと思い知った。そして弘成と今後の道のり、北海道のゴール地点函館までともに旅をすることになった。弘成との出会いは、僕の旅に多くの色彩をもたらし、見える世界を変えてくれたのである。嵐のような雨が降る日も、漆黒の暗闇の中で野宿が不安になる夜も、彼がいたからこそ笑いながら乗り越えられた。彼との出会いは僕にとって大きな出来事であった。

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弘成。彼は北海道の最北端の宗谷岬から出発して、偶然僕と出会った。奇跡であるといっても過言ではない。しかも、通っている大学も同じ京都で隣だった。

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その日の空は雲ひとつなく冴え渡っていて、僕らを祝福しているようだった。僕と弘成は出会って3日目、僕が旅を初めて8日目で、北海道の終着点、函館に到着しようとしていた。「ようへいと出会ってまだ3日しか経ってへんって信じられへんわ。もっと昔から知り合いだったような感覚や」通りがけのおばあちゃんに頂いたおはぎにかぶりつきながら、弘成が呟く。「本当にそうだよなあ」と僕もしみじみと同調した。どうやら人は旅の途中という文脈で出会うと、込み上げる親近感が極地に達するらしかった。函館市に足を踏み入れてから1時間ほど歩いただろうか、あたりは徐々に都会になってきていて、見覚えのある飲食店チェーンを目にする頻度が上がった。その頃にはあたりはすっかり暗くなり、車のヘッドライトが僕らの行く道を照らしていた。今日は森町という街から出発していて、函館市街地まで40km以上あった。連日歩いているので、慣れてきてはいるものの、体は休息を求めていた。僕たちは疲労で口数が減りながらも歩調を合わせて、無理のないスピードで進んでいった。Googleマップを確認すると残り1kmを切っていた。「弘成!残り1km切ってる!」疲労とは裏腹に弾んだ声で弘成に呼びかけると「ほんま?!あと少しや!頑張ろう!」と彼も大変喜んでいる様子だった。函館という街はひとつの節目でしかなかったが、感慨深いものだった。新千歳空港から函館市街地まで約250km。体力に自信はあったし、余裕なんだろうと考えていたが、この8日間は案外楽しいことばかりではないらしいことを示唆していた。北海道での思い出を振り返ろうとする自分を制し、目の前の現実に集中する。気が付くと既に目の前には函館駅があった。僕たちは熱い握手を交わし、別れを惜しんだ。そして、またどこかで会おう、この出会いは一生にしようと言ってお互い無事に旅を終えることを願ってそれぞれの道へと進んでいった。

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街でただ出会っただけでは味わえないような濃密な3日間だった。また日本のどこか、いや、次は世界のどこかでもいいかもしれないが、また会えることを信じている。

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「バイクで函館山とか行きませんか?笑」そんなダイレクトメッセージがTwitterに届いた。実は函館に向かう途中、二人の青年に自転車で追い抜かされていて、その時軽く会話をしたのだが、後にTwitterをフォローされたのだ。僕は函館で弘成と別れたあと、思いつきでダイレクトメッセージを送ってみたのである。「今日泊めてくれませんか?」自分でも驚くくらい怪しげな文章を送ってしまったとすぐ後悔したが、数分経つと返信が届いた。「大丈夫です!」もちろんこの返信を期待して僕もメッセージを送ったが、まさかこんな得体も知れない人間を泊めてもいいのかと、逆に心配になってしまった。そして、やりとりをしているうちに、函館山からの夜景を見に行くことになったのだ。21時を回ったころに函館駅に一人の青年が現れた。名を万龍と名乗った青年は長身痩躯でいかにも優しい顔をしている。その柔和な雰囲気は誰からも好かれるんだろうと安易に想像できた。そして、やはり非現実な出会い方のせいだろうか、僕たちは会話のキャッチボールを数回しただけで、昔からの友人にする接し方で親しみを込めて会話ができるようになった。「じゃあ、函館山に行こう」万龍は僕にヘルメットをよこしてバイクに跨った。僕が彼の背中に捕まると、2人を乗せたバイクは勢いよく函館駅を飛び出した。日中浴びるように降り注がれた日差しのせいで火照っている体が心地よく冷えていく。夜の函館の街は閑散としていたが、全てを包み込むような優しさを感じた。それは万龍の背中から伝ってくる温もりのせいかもしれなかったが、いずれにせよ、このままこの時間を永遠にしたいと、どこかに閉じ込めておきたいと、そう強く思った。程なくして、函館山の山頂に到着した。僕は夜景を見ながら万龍に感謝をして、そっとカメラで写真を撮った。せめてこの瞬間を永遠にしたかった。函館山から万龍の下宿に帰宅すると、自転車で僕を追い抜いていった時に、万龍と一緒にいたもう1人の青年がやってきた。名をゆうじと名乗る青年は万龍と同じく、優しさに満ちていて、寡欲そうな印象を受けた。ただドラえもんは大好きらしく、多くの雑学を披露してくれた。ゆうじはコンビニのバイト終わりだといって廃棄になった商品をテーブルの上に並べて好きなの食べていいよと言った。僕は感謝を告げて、スイーツに手を伸ばした。そんな彼らと語り合いながらゆっくりゆっくりと夜は更けていくのであった。

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僕が見たのは夜景ではなくて、僕と万龍の夜が現実に存在したのだと証明する光だった。この旅で感じたかった感情の全てがここにあった。 

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僕はその日、青森県の南部を足早に歩いていた。天気予報によれば日が沈んでから降水確率が上がるとのことだったので、夕方になるまでにはせめて、本日野宿を予定している碇ヶ関という道の駅には辿り着いておきたかった。すでに重苦しい雲が空を覆っており、正午だというのに風は冷気を纏い、僕はマウンテンパーカーを羽織っていた。延々と続く田圃道は僕に北海道を出て東北にいるのだという実感を沸かせた。そんな田舎道を歩いていると、高校生くらいの集団が目の前に現れた。こんな時間に何をしているのだろうと不思議に思っていると、その集団の後ろにいたおばさんが僕のことまじまじと見つめて、「あら、旅をしているのかしら?今からカレーを食べるのだけどあなたもどう?」と誘いを受けた。そういえば僕も空腹を感じ始めていたところだったと思い出し、「いいんですか、ぜひ!」とお言葉に甘えることにした。その集団の最後尾に混ざり、綺麗な一軒家に案内された。どうやらこの高校生たちは東京から民泊学習で数日間、おばさんの家に宿泊しているらしく、おばさんはその高校に選ばれた受け入れ先とのことだった。「さあ、座って座って」おばさんは楽しそうに僕をリビングに案内してくれた。テーブルには沢山のリンゴが切り分けてあり、僕のイメージする青森県と完全に一致して僕も楽しくなってきた。カレーもテーブルに並べられ、高校生4人とともに声を揃えていただきますと口にした。「いただきます」の意味をここまで強く意識した日は今日が初めてだった。食事を用意してくれる人、一緒に食事を摂る人がいること、今までの人生で当たり前だと思っていたことがこの旅では当たり前ではなくなり、目の前の状況に対して絶えず感謝の念を抱けるようになっていた。カレーを食べ終わると高校生たちは各々部屋に戻っていった。「日本縦断なんてすごいわねえ。私の息子も見習ってほしいわ」残されたリビングでおばさんがしみじみと僕に呟いたが、僕は謙遜しているわけでもなく、至って本気で「全然!そんなことないですよ」と言い返した。それでもおばさんは「でも、あなたのこの旅はとてもいい経験になるわ」と語りかけるような優しい声で言った。僕はその言葉を頭の中で反芻して、リンゴを齧りながらぼんやりと考えに耽った。僕にとってこの旅は今後、いい経験として消化されていくのだろうか。なんだか違う気がする。うまく言語化できないが、「経験」という単語とこの旅が頭の中でうまく結びつかず、しこりが残った。僕はこの旅が人生においてどんな意味を持つのか真剣に考えなければいけないなと思った。「あら、そういえば時間は大丈夫かしら?」おばさんのその言葉でふと我に返り、時計の針をみると時刻は14時を回っていた。そういえば今日は夕方までには道の駅に到着しなければならなかったのだ。「すみません、そろそろおいとまさせていただきます」僕は最後におばさんと高校生たちと写真を撮り、先を急いだ。

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色々な差し入れをしてくださったおばさん。早くお礼をしに行かねばと思っているものの青森県はなかなか遠い。

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Google マップを頼りに最短ルートで日本を縦断しようとすると、時に辺鄙な村へ案内されることがある。僕はその日、ひどく曲がりくねった峠道を歩き、とある村を訪れた。上小阿仁村という名のその村は、間違いなく車でしか辿り着けないような秋田県の山中に位置し、少なくとも歩いて訪れる人なんて、江戸時代を最後に僕が400年ぶりなのではないかと思う。昨日の野宿地から上小阿仁村まで25kmほどで、本来ならばもう少し歩きたいところだったが、この村を通り過ぎると再び長い峠道が続いていたのでやむを得なく、今日はこの村で野宿をしようと考えていた。午後14時を回った頃に、上小阿仁村の道の駅に到着すると、なにやら屋台が出ていて、楽しげな雰囲気が漂っていた。僕は興味本位で約20mほどに連なっていた屋台の通りを歩いてみると、屋台を出しているおじさんに声をかけられた。「おっ、すごい徒歩で日本縦断?」僕のバックパックに吊るしてある「徒歩で日本縦断」と書かれた看板を見て、おじさんは確かめるように尋ねてきた。そうですと少し照れながら答えると、興味を持った様子で「沖縄出発?」と再び尋ねてきた。「いや、北海道です」「あら、まだまだ、15%くらいかな」僕は心の中で考えることを禁じていた、ゴールまでの果てしない道のりを思い、少し憂鬱になった。それを察したのか、おじさんは「よし、それじゃあ」と言って、屋台で売っていたバター餅を差し出した。「これが噂のバター餅だよ」と言ったおじさんに心の中で噂にはなってないけどねとツッコミを入れて有り難く頂いた。おじさんに別れを告げ、再び屋台が連なる道を歩く。すると歩き切る頃には両腕では抱えきれないほどの差し入れを頂いた。焼きそばやハムフライ、シフォンケーキなど、屋台を出している多くの人が頑張ってねと言いながら笑顔で差し出してくれた。僕は僕のありったけの感謝を「ありがとうございます」と口にするしかできず、もどかしい気持ちになったと同時に、これだけの人が応援してくれるのだから、必ず沖縄まで歩き切ろうと決意を新たにした。僕はバター餅のパッケージをビリっと破り、一口齧った。口の中をほんのり甘い風味が駆け抜けて、なるほどもしかしたらこれは噂になっているかもしれないと、先程心の中でツッコミを入れた自分を自戒して、ぼそっと「上小阿仁村、必ずまた来るね」と呟いた。

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上小阿仁村の道。何かの間違いかと思うくらい辺鄙なところにあり、都会の喧騒から遠く遠く離れ、僕の見ている日本が日本の全てではないことを身を以て知った。

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「日本海に沈む夕陽は綺麗ですよ」自分のことをまんたろうと名乗ったそのお兄さんは、僕にそう告げると、夕陽がよく見える道の駅の裏手にある丘を紹介してくれた。僕は秋田県は南部のにかほ市まで来ていて、日付はとうに10月になっていた。自転車で日本一周をしたこともあり、今は愛媛県を目指して自転車を漕いでいるというまんたろうさんは丁寧に頭を刈り上げた、物腰柔らかな人だった。歩いてこのにかほ市の道の駅を目指していた僕を、自転車のまんたろうさんが話かけてくれて、一度は抜き去られたものの、この道の駅で待っててくれたのだ。僕が見た海に沈みゆく夕陽は、額に収めて飾りたいほどの絶景だった。ずっとその瞬間を見ていたかったが、なぜだろう太陽は沈みかける瞬間だけスピードを速めて、すぐに海の向こう側へ姿を消した。徐々に闇が濃くなっていく。まんたろうさんは夜ご飯でも食べようかと言って、すたすたと丘を降りていった。僕もそれを追いかける形で丘を降りた。夜ご飯を一緒に食べながら、僕はまんたろうさんに「なぜ旅をするんですか?」と尋ねたが、そのあとすぐに後悔した。なぜなら僕も、旅をする理由について人を納得させられるほどの回答を持っておらず、その質問をされるたびに陳腐な返答をしてしまうからだ。まんたろうさんは「そうだなあ」と言いながら、持ち前の自炊セットで炊いたお米を頬張っていた。僕は回答を待たずに濁すようにして次の話題へとすり替えた。結局のところ僕らが旅をする理由は、旅が終わってみなければ分からない気がしていた。僕とまんたろうさんは夜ご飯を平らげると道の駅の休憩室で共に夜を明かした。次の日の朝、僕らはそれぞれの目的地へ向かうためにお別れをした。ふと気付くと、僕が知っている彼の情報は、「まんたろう」という本名か偽名かも分からない名前だけで、それ以上は何も知らなかった。もしかしたらそれも旅の一つの醍醐味かもしれない。出会いと別れ、たとえ一日だけあるいは数時間だけの出会いだったとしても、僕の心に深く刻み込まれ、次の目的地へと歩く希望になっていった。

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日本海に沈む夕日。闇と夕陽がせめぎあいながら、海の向こう側に沈んでいく太陽がいつもより急いでいるような気がした。

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僕は今日という日を今か今かと待ちわびていた。新潟県は上越市に入り、Twitterのダイレクトメッセージを送る。「もうすぐ着きそう!」「むかうわ!」短いやりとりを終え、約束していた上越教育大を目指し歩調を早めた。中学時代の友人が、進学で新潟県にいる、という話ではない。実は旅の道中で同い年の大学生と友達になっていたのだ。当時、彼は鹿児島県から北海道まで自転車で日本を縦断していて、青森県で邂逅し、話しかけられたのだ。ほんの数分話しただけだったが、彼が上越市で大学生活を送っていると言うので、僕が新潟県に立ち寄る際は是非会おうと約束していたのだ。そんな「行けたら行くね」程度の期待値より低い約束をいとも簡単に果たしてしまうくらい、旅中の出会いは2人を強く結んだ。少し待つと、約束通り僕の前に1人の大学生が現れた。「ほんまに来てくれたんや!めっちゃ嬉しい!」滋賀県出身という彼は流暢な関西弁で、僕に会うや否や無邪気に喜んだ。僕は「当たり前やん!」と堂々と言ったが、もしかしたら、彼でなければ、会いにきていないかもしれない、とその時直感的に思った。それほど、彼の身に纏う雰囲気に魅了されていたのだ。寺田と名乗る彼に「なんと呼べばいい?」と聞くと「なんでもいいよ」とのことだったので、僕は親しみを込めて彼のTwitterの名前である「だーてら」と呼んだ。そして、だーてらは僕を部屋に案内すると「今からバイトやねん、ゆっくりしてて」と僕を部屋に残し、足早に出ていった。会うのは2回目で、なおかつ一緒にいた時間の総和も1時間に満たない僕を部屋に置いて出て行くなんて、よっぽどの親切か、頭のネジが2,3本取れているかのどちらかなのは明らかで、僕は恐らく後者だろうと踏んでいる。そんな彼のバイトが終わる時間まで部屋で待っていると23時前にだーてらは帰ってきた。彼はすぐに「温泉に行こう」と僕を誘い出した。その温泉施設は車で数十分のところにあり、彼のバイト先でもあるらしい。そして、なぜ温泉施設で働こうと思ったのかという質問に対し、彼は無料で温泉に入りたかったからと邪にも程がある考えを発表したので、僕はますます彼のことが好きになった。温泉から上がると帰り道にはラーメン屋に寄って、ラーメンをすすった。温泉もラーメンもだーてらが奢ると言って聞かないので、僕はなぜそこまでするのかと尋ねると、「僕も日本を縦断したときに、沢山の人に奢ってもらったからね。それをお返ししなきゃ」とさも当然かのごとく言った。人の優しさに触れると自分も優しくなり、優しさの輪が広がっていく。どこかの誰かがだーてらに施した優しさは、今日をもって僕に回ってきたのだ。僕は感謝の気持ちをこれでもかと込めて「ありがとう」と言った。それは申し訳ないという気持ちから出発したものではない、純粋なありがとうだった。僕は旅の道中で誰かに優しくされるたびに、申し訳ないという負の感情が心の中で小さな渦を巻いていることに気づいていた。しかし、その感情は不要なものだったと、だーてらを見ていて思った。誰かの厚意を今は素直に感謝として受け取ろう。僕に渡されたバトンは次の誰かに渡す機会が来るまで大切に持っておけばいいのだ。僕はだーてらの部屋に戻ると、急激な睡魔に襲われ、意識を取り戻す頃には正午近くになっていた。

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優しくてどこか抜けているだーてら。皆から愛されるような性格をしていた。この日を最後に連絡を取っていないが元気にしているだろうか。

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降ったりやんだりを繰り返す雨にうんざりしながら、僕は石川県小松市を足早に歩いていた。僕のバックパックに吊るされている「徒歩で日本縦断」と書かれた看板は紙でできていたので、雨の日には吊るせない仕様になっていた。つまり、雨の日は多くの人が僕を見かけても、大きなバックパックを担いで、何かに取り憑かれたかのように歩き続ける不審な人物だと思うに違いなかった。それでも、彼だけは違った。「お兄さん、何しとる?日本一周か?」好奇心だけで追いかけてきたという彼は、小さな町の中華料理店の2代目店長で、僕と同い年だった。僕が「日本一周ではなくて、日本縦断です」と例のごとく丁寧に断ると「やっぱそうやと思った。お腹空いとるやろ。ウチで飯食ってき」と言って、僕をお店に案内した。「龍華」という如何にも中華料理屋という名にそういえば、お昼ご飯はまだだったとふと思い出した。時刻は15時近かった。「一応昼営業は終わって、今は休憩中や」と言われたが、常連客と思われるおじさんおばさんが一生懸命世間話をしていて、地元の人たちに愛される居心地のいいお店なんだなと思った。カウンターに座らされ、何が食べたいか聞かれた覚えも無く、どんどん料理が作られていった。最初に口にしたのは餃子だった。お腹が空いていたので、一口で放り込むと閉じ込められていた肉汁が待ってましたと言わんばかりに口の中で広がった。名を太郎といった青年は町内に1人はいるであろう典型的なわんぱく小僧のようなタイプで、僕が餃子を飲み込んだのを確認して「どうや。うまいやろ」と質問を投げかけてきた。いや、質問というよりは「YES」か「はい」で答えてくれという圧力を感じるものであったが、実際に美味しいと感じたのでうまいうまいといって、どんどん料理を平らげていった。彼もご満悦のようで、僕が彼を気に入ったように、彼も僕のことを気に入ってくれたようだった。そして彼は「今日はどこまでいくん?うち泊まってき」と100%正しいだろうというような言い草で提案してきた。今日は残り数キロ歩きたかったが、その頃には旅にイレギュラーは付き物だと学んでいたので、快くその話に乗った。僕が遅めのお昼ご飯を食べ終わる頃には太郎も夜の営業準備に入っていて、「ゆっくりしててくれ、夜営業終わったら一杯やろう」と言って僕を居間に上げてくれた。しかし程なくして、「おいようへい、手伝ってくれ」と言われた。いかにも彼らしい破天荒な申し出に笑みが溢れてしまったが、もちろんと承諾して、食器洗いと料理運びを手伝った。夜の営業が終わると、「鍋食おう」と誘われた。さすがに太郎は疲れているだろうと思ったが、「料理するの好きげんて」と言って、支度も全て彼に任せてしまった。出来上がった鍋、もちろん鍋の素など使っていない0から100まで手作りの鍋は、全ての具に旨味が凝縮されていて、なるほど流石だなと感心してしまった。そして同時に、自分の好きなことを極めながら、それを生業としている彼を少し羨ましいとも思った。お爺さんから受け継いだという(実際にはまだお爺さんも現役で厨房に立っている)龍華の看板を守り抜きたいし、ゆくゆくはお店を広く展開したいと夢を語る彼が僕には輝いて見えた。僕はこの旅が終わり、社会人になったらどんな大人になるのだろうか。彼のように自信を持って「この仕事が好きだ」と言えるだろうか。言えるといい。漠然と考えながら、また一つ記憶に残る夜を過ごした。

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太郎。人のことをよく考えて配慮ができるお兄さん肌の青年だった。龍華の天津は絶品だった。また食べに行こう。

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「俺も一緒に歩かせてくれ」福井県を出て京都府に入るとそんなLINEが届いた。京都に住むバイト先の友人は、名を金子といい、旅を通して人間形成をするんだと言って張り切っていた。北海道を出発して50日が過ぎ、ほぼ毎日1人で歩き続け、1人で夜を明かす旅に慣れてきていたものの、やはり誰かと一緒に歩けるのならその方がいいと考えたので喜んで一緒に歩きたいと申し出た。僕は今日の夜には舞鶴市の道の駅に到着すると告げ、そこで合流する約束をした。すっかり秋にも深みが増し、黄昏は幾分も早く夜へと切り替わるようになっていた。ほの暗い闇に包まれつつある18時頃に僕は舞鶴の道の駅に辿り着いた。テントを張り、寝る準備も整えた23時ごろであろうか、「駅から遠いわ」と気だるそうに歩いてくる青年が金子であると認識するまで一寸も掛からなかった。何十日ぶりに会う気の置けない友人は、もちろんただの何十日ぶりなのだから、何も変わらず、僕は安心感を覚えた。「久しぶり」と言うと「元気そうだな」と言われた。元気も元気、この頃になると1日に40kmを歩くこともザラで、最も歩く日では50km以上も歩いてるのだから。それにしても彼が京都市から電車に乗って、舞鶴の駅で降り、そこからこの道の駅まで2kmほどしかないが、果たして明日から大丈夫だろうかと不安になった。しかし、明日から2泊3日で共に旅をする仲間がいるというのは心強い。積もる話もあったが、明日以降のためにもお互い早く寝床に就いた。 
僕らは朝早くに起床して、京都の舞鶴から南へと下り、兵庫県を目指した。僕は兵庫県明石市からフェリーに乗って小豆島経由で四国に入る予定で、金子も行けるところまで付いていくと言った。僕らは足並みをそろえて、喋りながら歩いていた。京都舞鶴ー兵庫明石間は想像以上に山道で、北海道から歩いてきた僕でさえ1日が終わる頃には口数がうんと減っていた。そんな過酷な道だというのに金子は決して投げ出したりせず、大きな弱音すら吐かなかった。僕は金子の存在に助けられていた。実は新潟県から石川県あたりまで日本海側に果てしなく続く国道8号線を一人で歩いてきたのだが、変わらない景色や人との出会いの少なさに嫌気がさし、早くこの旅から解放され、京都に帰りたいと幾度となく考えていた時期があった。旅を終え、京都で友人たちと遊んでいる姿を妄想することだけが、唯一の楽しみだった。しかし、いまは全く別人であるかのように、この旅の全てを楽しんだ。目の前の景色に純粋に感動し、金子との会話に心が弾み、1日の訪れに希望を抱いた。僕らは自分の幸せを自分だけで完結させることは無理なんだろう。誰かを通して、世界を見て、誰かを通して、自分を知る。僕は金子を通して、多くのものを見て、多くのことを知った。もしかしたらこれがこの旅の全てなのかもしれない。僕はそんなことを考えながら、真剣に歩く金子の横顔を見て、声にはならない声でありがとうと言った。

画像12

金子が改めて旅の楽しさを教えてくれた。彼とはまた何度も人生で会う気がする。そんな気がする。

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TO BE CONTINUED
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Yohei Sassa
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