マキアヴェリ『君主論』を読む
マキアヴェリの『君主論』を読んだ。きっかけは、あるアカデミー関連機関が調査した全米の大学教科書トップ100で4位にランキングされている事実を知ったことによる。岩波による「アメリカ10大学の課題図書」でもこの本が3位にランキングされていて、古典として絶大な人気を誇り、必読文献として大学教育に使われている様子が分かる。私は学生時代に齧ったきりで、完読に至らず中途で放り出したままだった。今回は最後まで読み切り、収穫も多い。学生時代のときも、やはり政治学のマストの古典だから読まなきゃという動機で臨んだが、全く面白くなく、哲学的でもなく、人間社会の真理が深く掘り下げられた理論が展開されているでもなく、何の刺激も魅力も感じず、無味乾燥で退屈な印象だけが残った。
人生を長い時間過ごすと、経験が人を古典の意義の発見に近づけ、価値の重さの感得に導くものだ。今回の読書でそのことを痛感した。今回は、この本がなぜ欧米の高等教育の基礎教材として不滅の地位を維持しているのか、愛読され続けるのか、その疑問に解を与えることを目的とし、その問題意識で読み込んだのだけれど、果たして、十分に納得できる結果が返ってきた実感がある。私なりの理解だが、なるほどと積極的に頷けた。満足感を得た。その意味で今回の読書は成功となり、私もまた『君主論』を読み論ずる輪(サークル)の末端に加わる一人となった。欧米の大学教室で学生たちに『君主論』を課題指定し、レポートを書いて来いと催促する教授たちの指導ルーティンによく同調できる立場となった。
■ 性悪説の政治理論、冷徹なリアリズムの政治指南書
けれども、正直に言えば、最初の2、3ページを読んだ感想は、今回も学生時代のときと同じで、興趣を覚えにくい、距離感を否めないものだった。平板で皮相的な権謀術数論の「奥義」が勿体ぶった筆致で累々と書き連ねられている。こんな低レベルな議論と主張の羅列が、なぜ近代政治学を最初に樹立した画期的な書などと称賛され(丸山真男集 第四巻『政治学入門』P.244)、崇め奉られるのだろう。そう疑問に思い、不自然な感を否めない。還暦を過ぎた再チャレンジの読書は壁に突き当たったが、それでも読み進んで行くうちに、次第に自分なりに意味が掴め、視野が開けてくるようになった。途中で立ち止まって反芻し、歴史年表の流れに目を通し、丸山真男集を捲って調べ直しつつ、想念を起こしながら読み砕いた。これが年の功というものだろうか。
そして、私なりの結論というか仮説を得た。『君主論』の謎について現時点での決着をつけた。この本の所論に対する距離感や違和感こそが大事なのだという確信を得た。ここには、まさに生々しい権謀術数論が述べられていて、性悪説の政治学が遠慮なく露骨に語られている。君主たる者、獅子のように狐のようにと提言されている。性悪説の象徴と言われるように、人間不信の思想性が際立っていて、マキアヴェリが捉え描く民衆は、エゴイズムの塊で、愚かで定見がなく、私欲と一時的感情に流されるだけの動物的存在だ。民衆だけでなく、貴族も君主も同様である。だから、議論は人を巧く騙して操る権謀術数論となり、それを上手にできる君主が有能な君主だという説諭と講釈になる。政治とは人を騙して操る統治の技術と過程ということになる。『君主論』はその政治マニュアルだ。
■ 中世の民衆と現代の衆愚
このマキアヴェリの理論が、これまで私の中で関心を惹かなかったのは当然だ。理想の契機が寸毫もない。本の中で、何度も同時代のイタリア政治史の謀略と虐殺が述べられ、その都度、マキアヴェリはそれを冷淡に肯定し正当化する。民衆など虫けらと同じだという態度で君主(ロレンツォ2世)に教訓と助言を献上している。それに接する度に、この本との断絶が意識され、意義を否定する気分になる。だが、そこではたと気づくのは、人生を長く重ねてきての、民主主義や市民社会に対する現在の私自身の偽らざる心情、すなわち根本的な幻滅と失望であり、理念がボロボロに朽ち果てた現代日本への悲嘆と鬱懐である。今はそれが基底意識になっていて、だから、民主主義は衆愚政治であるとプラトンを口真似し、哲人政治への憧憬を記事に表出している。
結局、マキアヴェリは正しいのだという認識にならざるを得ない。マキアヴェリの性悪説への屈服を承認せざるを得ず、白旗を上げざるを得ない。マキアヴェリが現在の日本を見て何と言うだろう。お笑い番組に脳細胞を溶かせてゲタゲタ笑い、「スゴイ」と「ヤバイ」の感嘆詞二つを動物の鳴き声のように連発し、下卑た「草語(wトーク)」の披露をツイッターで依存症的に愉しむ獣畜と痴呆の群れ。それを目撃して、マキアヴェリは何と言うだろう。『君主論』で描かれる、強欲で軽薄で利己的で恩知らずな、短絡的で付和雷同的に動いて愚かな生き死にを繰り返す、中世イタリアの民衆とどこが違うのかと言うだろう。選挙になれば、自民党か維新に投票するか棄権するしかない、マスコミに言われるまま動く政治的知性の大衆を見て、『君主論』の民衆像と何も違わないじゃないかと言うに違いない。
■ 積み重ねの政治思想史とマキアヴェリの位置
だが、それでも、同時に思うことは、ヨーロッパは16世紀のマキアヴェリ『君主論』の民衆からステップアップし、18世紀のルソーが『社会契約論』で説く人民主権の人民にまで自らを進歩させたという歴史だ。社会契約の主体、すなわち国家の主権者の地位にまで高めている。民衆=人民はそこまで自己を理念的に発展させた。有能あるいは無能な君主に操縦され飼育され、侮蔑され、卑屈な動物のように地べたで蠢いていた中世の民衆が、社会契約の下で国家の意思決定を担う近代デモクラシーの国民へと変貌する。古代アテナイの伝説の輪番制度を、身分の区別なく社会の全成員でキャリーする代議制政体へと構想し、市民革命のチャレンジを経て体制化してしまう。丸山真男は、ヨーロッパの政治思想史は積み重ねであると言ったが、実にそのとおりだと納得させられる。
ヨーロッパの政治思想史は、人間社会の成長と発展の物語である。それは否定できない。マキアヴェリは古典古代と西欧近代の中間に位置し、二つの繫ぎ役となっている。欧米思想にとって大事な媒介環であり、脈々と続く政治思想史の中継の地点と段階を示すキーモメントだ。全米大学教科書ベスト100の中に、驚くほど多くギリシャ・ローマの古典(文学を含む)が入っていた。マキアヴェリは、古代ローマの政治史を分析し総括した秀逸な研究者であり、『君主論』でもそれが縦横に語られている。欧米のアカデミーがマキアヴェリを特に重視し、課題図書に選んで学生に古典教育を施す意味がよく分かる。欧米で学につく者はギリシャ・ローマの教養が不可欠なのであり、ローマ政治史の知識は必須なのだ。『君主論』を通じて古代ローマに導かれ、またルネサンス芸術に誘われる教育回路が設計されている。
■ 率直な違和感の正体
最初に書いたマキアヴェリに感じる疎遠さ、隔絶感について少し突っ込んで考えたい。私には、これは単に500年前という時間的な遠さの問題だけではないような気がする。例えば、突飛な発想だが、フィリピンやタイやベトナムが世界の先進国の列に並んだとき、そのアカデミーで必読古典としてマキアヴェリが選定され指導教育されることがあるだろうか。そんな仮定を考える。要するに、アジアと欧米の人間観の違いの問題だ。われわれは、マキアヴェリを性悪説の政治思想家と定義し、ホッブズと同類のカテゴリーに入れ、中国思想史における荀子・韓非子の性格を与えて整理し、孟子の性善説と対比させて意義を了解している。丸山真男もそうした視角からマキアヴェリを論じ、性悪説の方が政治学の嫡流であり正論であると言う(丸山真男集 第三巻『人間と政治』P.230)。
だが、こうした、冷徹なリアリズムという一般論でマキアヴェリを積極評価する学説は、本当に正しいと言えるのだろうか。私のマキアヴェリに対する違和感の正体は、煎じ詰めれば、マキアヴェリの戦争や暴力に対する容認の態度であり、それを社会運営の当然の前提として扱う思考であり、それを媒介せしめる冷酷な人間観である。比喩して言えば、欧米において特徴的と感じられる肉食獣的あるいは爬虫類的な人間性と人間観だ。周囲の人間はすべて自己の目的を達成するための手段であり材料であると見做す、そうした自我と主体性だ。そこには、平和こそ第一とか、和をもって尊しとか、命どぅ宝という発想や契機はない。ローマの時代も征服した周辺異民族を奴隷使役したが、マキアヴェリの時代もヴェネチア商人が東のスラブ人を捕獲してトルコに奴隷として売っていた。大航海時代にアフリカと新大陸で全面展開する奴隷貿易を行っていた。
■ 新自由主義全盛の時代 - ネグリの三十年戦争論
なぜ今さらこのような子どもじみた逆転の提議をするのかと言うと、それは、今の時代が資本主義が極まった新自由主義全盛の時代だからである。弱者が強者の奴隷となり、<帝国>によって被支配者が殺戮される時代だからだ。ネグリは2005年の『マルチチュード』の中で17世紀の三十年戦争の地獄と悲惨を描述し、今、新しい中世が始まったと書いたが、思い返して、やはり示唆的で本質を射抜いた指摘だったと感服する。人が人に対して獣になる時代。全米の大学教科書トップ100のリストで確認できるアメリカの古典教育は、一面から見て、侵略戦争を社会の必然とし、人が人を奴隷的に支配し服従させ、あるいは抹殺してきた自己の歴史を肯定するものだ。新自由主義的な価値観や人間観を信念化させ、永続化させる教育体系である。弱肉強食を正義とし、それを否定したり自制する倫理のない哲学体系だ。そのように批判できる。
例えば、カントの『永遠平和のために』は、アメリカの古典トップ100には入っていない。18世紀に国際連合の創設を提起した書であり、われわれ日本人には(特に政治学においては)重要な古典として仰がれているけれど、欧米ではそうした事情になっていない。これでは到底、アメリカの大学生が日本国憲法9条の原理に到達するということはないだろう。欧米の政治思想史は確かに積み重ねの構造体であり、2千年以上の経験と論争が有意味に重なり、人類の進歩をなしてきた確固たる建築物だが、肝心のところで理想の前で足踏みしているように見える。普遍的理想にコミットせず、野蛮な自我を肯定する反動の要素を標準的な学問の中に内在化させているように思われる。BLM運動がアメリカに突きつけている問題は大きく、その状況次第で、安定的に見える全米大学教科書ベスト100は一変するだろうし、USAという国家そのものも崩壊の危機に瀕するだろう。
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