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NHK大河ドラマ『べらぼう』と売春防止法 - 風紀紊乱の助長と社会的悪影響

今年のNHK大河ドラマ『べらぼう』は、江戸中期の版元として活躍した蔦屋重三郎の生涯を描く物語で、その初回が1月5日に放送された。葛飾北斎、喜多川歌麿、東洲斎写楽、山東京伝など、今や世界的人気を博している天才芸術家を次々発掘し、世に送り出し、江戸文化を華麗に花開かせた文化的英雄として蔦屋重三郎を位置づけ、その偉業を視聴者国民に紹介するドラマとなっている。脚本は森下佳子だが原作者はいない。放送開始と合わせたタイミングで田中優子著の『蔦屋重三郎 ー 江戸を編集した男』が刊行されていて、番組のガイドブックとなり、バックボーンとなる役割を果たしている。ちょうど昨年(2024)、『光る君へ』放映に合わせて木村朗子が文春新書から『紫式部と男たち』を出し、番組を宣伝するNHKの特集番組に出演していたが、そのエンドースメントと権威づけの方式と全く同じだ。田中優子がこのドラマの事実上のプロデューサーだと考えられる。

ドラマの主舞台は幕府公認の遊郭だった吉原で、吉原という小宇宙がリアルにかつ詳細に描かれる設定と構成となっている。3000人の女郎が暮らし、1万人が定住したところの、特殊な近世売春街の閉鎖空間で物語が進行していて、番組は吉原のガイドとプレゼンテーションとなっている。初回はまさしくその内容で埋められていた。吉原がこれだけ本格的にテレビで紹介されるのは初の企画であり機会だろう。言うまでもなく、テレビは社会の教育機関として機能する媒体であり、特に公共放送はその性格を強く持つ。その意味で、『べらぼう』はある種の”文化革命”の意味を持つに違いない。30年前の日本ならこの企画は実現しなかっただろうし、PTA全国協議会がNHKに抗議し、社会問題となり、世論の非難を受けてお蔵入りになったはずだ。なぜなら、売春の意味が肯定化され、容認され、売春街の存在が社会的に公認される趣向でドラマが制作されているからである。

大河ドラマ『べらぼう』に接して素朴に思うのは、売春防止法の法律とNHKのコンプライアンスに照らしてどうかという問題だ。この点を提起したい。もし現在が30年前なら、子どもの教育上よくないという意見が上がり、それが多数派の声となり圧力となり、NHKは非難轟轟で責任問題になっただろう。社会の価値観が変わったから『べらぼう』が歓迎され、売春空間の公認化が一般に納得される環境になったと、そう言えるかもしれない。だが、私はその価値観の変化に対して懐疑的な態度の者であり、あくまで売春防止法の理念と目的を遵守し、その倫理的基準を守るべきとする信念に立つ。1956年に法が成立したとき、法制定に尽力し運動した神近市子や市川房江らの目から、果たして『べらぼう』の吉原の描き方はどう映るだろうか。賛同できるものだろうか。法は、売春を人の尊厳を害すものと規定し、社会の風俗を乱す社会悪だとして禁止を謳っている(1条・3条)。

こう言上げを始めると、忽ち、アカデミーと世間の主流になっている脱構築左派や新自由主義右派から「時代遅れの昭和のオヤジ」のレッテルを貼られ、揶揄と侮蔑の標的となり、誹謗中傷の雨霰が降り注ぐ図が予想される。慣れっこになったが、SNSの凶悪な暴力を思うと逡巡の気分を否めない。だが、それを押して、敢えて老骨に鞭打って正論を言い張るのは、現在の日本の深刻な状況があり、新宿歌舞伎町大久保公園梅田難波の、全国そこら中溢れる立ちんぼ禍の現実があるからである。20年前なら、私もかく口を尖らせて「横丁の隠居の説教」の如き古典的言論には出なかっただろうし、社会風紀や公序良俗の立場に積極的に立つことはなかった。だが、立ちんぼ天国と化し、石を投げれば売春女性に当たる日本の惨状を前にして、また、ハワイや豪州に出稼ぎに行って摘発・検挙され、世界の話題になっている大量の現代版からゆきさんの実態を見て、もはや座視と沈黙はできない。

NHKが大河ドラマで吉原公認のエバンジェリズムをするのは看過できない。あまりに非常識であり、放送倫理違反であり、NHKのコンプライアンス違反だ。戦後民主主義と政治学(政治思想史)の立場から、『べらぼう』批判の論陣を張らなければならないという衝動を抑えられない。『べらぼう』にはバックボーンがある。田中優子の脱構築主義の視座と企図があり、現代フェミニズムの売春をめぐる解釈と言説の潮流がある。すなわち、そこには「セックスワーカー」の概念措定があり、売春を肯定的に意味づけて合法化する動きがある。自己決定での売春は一般労働者の労働と同じであり、サービス提供の正当な従業あるいは個人事業であり、不当視はやめ、経済行為として社会的地位と法的権利を認めるべきという主張だ。われわれの常識からはあっと驚く暴論だけれど、現代フェミニズムの世界では主流らしい。彼らは、時代遅れとして売春防止法の揚棄(解体脱構築)を目指している。

この方面の大御所的権威と言っていい 戒能民江(戒能通孝の娘)が、昨年4月の「女性支援新法」- 困難な問題を抱える女性への支援に関する法律 - の施行に当たって、その意義を述べ解説している。セックスワーカー論への積極的コミットはないが、 やはり売春防止法への批判があり、現行法は既成道徳と社会秩序の女性への押しつけであり、女性の差別や人権への観点が欠落しているという意味の総括をしている。戒能民江の議論がこの問題についての最大公約数的で中立的な意見なのだろう。が、私から見れば、リベラリズムに寄り過ぎた脱構築の見解に見え、抵抗を覚える。脱構築の主張をする者は、道徳や倫理に対して条件反射的な敵意と拒否を示すのが特徴であり、近代までに構築された道徳の解体がコンセンサスとなっていて、その意思と妥当性を学界で共有し、スタンダードの思惟的基盤にしている。40年の間にこの思想で染まったが、本当に脱倫理で売春問題が解決するのだろうか。

客観的・経済合理的に、価値判断自由に考えたとき、立ちんぼの海となった現在の日本は、外国人観光客にとって垂涎の消費市場であるに違いない。『べらぼう』の初回でも、田沼意次が「宿場町に人が集まる魅力は何か」と問い、蔦屋重三郎が「色と xx にございます」と答える場面が登場した。嘗てのタイのように、日本は買春市場としてきわめて魅力的な観光地になっていて、それを目当てに大量の「消費者」が押し寄せる国になっている。インバウンド市場の拡大において、事実の問題として、大久保公園等の街娼は欠くべからざる前提的資源なのだろう。新自由主義の資本と国家のホンネでは、東京や大阪の立ちんぼは観光客を惹き付ける目玉商品であり、インバウンド産業の成長と繁栄の必須要件なのだ。東京都(警視庁)などは、それゆえだろうが真面目な取締を行っておらず、実際にはフリーな営業を認めている。そこに現代フェミニズムの理論が重なって、売春を常態化させている。

このとき、インバウンド拡大を欲望する資本と国家にとっては、売春防止法は邪魔な規制であり、ディレギュレーションしたい障害物となる。また、新自由主義の資本と国家にとっては、現代フェミニズムの唱えるセックスワーカー論は願ったり叶ったりの福音セオリーだろう。二者の動機と論理と利害は簡単に癒着して一つの方向性となる。売春防止法は、勧誘と斡旋と他者影響力の三つを犯罪類型として処罰している。現在、アリバイ的に時折行われる警察の一斉摘発は、第5条の勧誘を根拠としたものだ。が、もしも、セックスワーカー論のヘゲモニーが貫徹して法改定された場合、この構成要件が撤廃され、犯罪が犯罪でなくなり、自由意志での勧誘行為は合法となってしまう。つまり、警察は街娼に手出しできなくなる。そうなれば、資本は組織的に売春事業を大型化し合理化し、ヨリ洗練されたビジネスモデルに努め、花魁的な花形スターや人気タレントを作り、女性の市場参入を促進するだろう。

立ちんぼの原始的スタイルではなく、アプリで安全に仲介するシステムとなり、ホテルが自ら提供し、人材派遣業者が参入する形態になるかもしれない。彼らは政権与党に賄賂を献上し、自社に有利な法制度に変えて行くだろう。その図は阻止したい、というのが私の危機感の中身である。個人の尊厳の毀損であると同時に国家の名誉の失墜であり、国民の恥辱であり自信喪失となる最悪の事態ではないか。だが、そうした危惧や懸念は田中優子には見られない。セックスワーカー論についての田中優子の姿勢はよく分からないが、『べらぼう』の放送が社会に悪影響を及ぼすとか、家庭でテレビを視聴する若い親子に混乱と迷惑を持ち込むとか、立ちんぼ現象への嫌忌感が殺がれて常態化に拍車をかける心配があるとか、そのような不安や躊躇は文春新書の筆致からは感じられない。田中優子においては、吉原は世界を感動させている江戸文化のインキュベーター装置であり、江戸遊郭の光の面に焦点が当てられている。

人類が近代に確立した制度と思想を憎悪し呪詛する脱構築主義者は、二言目には、社会道徳や社会秩序を頭から否定する言説を吐くが、もともと、モラルもルールも個人を守るために作られたものであり、人権もその一つである。売春防止法は、明らかに売春を社会悪と捉えていて、それを女性の不幸として認識している。禁止を明記している。条文には書いてないが、売春がこの世から消滅する理想が思い描かれていて、一人たりとも女性が売春をしなくていい時代の到来を祈念し、男女が売買春の関係を組むことのない社会が実現すればいいという願望があることが窺い知れる。それは幻想かもしれないが、戦後の日本は、一歩一歩それに近づく営みをした社会過程だったと言えるだろう。売春婦は賤蔑される。たとえ合法化されてもネガティブな表象は消えない。なぜなら、その職業は普通の労働者ではなく、その行為は普通のサービス労働の範疇ではないからだ。その行為には、過去からの女性の不幸と悲哀と嘆きが堆積している。

そこには性病感染と妊娠のリスクがあり、暴力と虐待のアクシデントがあり、暴力団の関与と支配が必ず付随する。それは女性の貧困と差別と不名誉を象徴するものだ。戒能民江は、女性支援新法の理念は素晴らしいと強調しているけれど、私はこの説明にただちに肯首できない。新法には売春は悪であるという規定がない(売春という言葉もない)。第1条に新法の目的が書かれているが、どういう理念なのか曖昧でよく分からない。行政による女性支援の充実という面では確かに前進しているのだろうが、果たしてこれで本当に大久保公園の問題が解決され解消されるのだろうか。率直にその筋道が確信できない。


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