演劇好き・田中圭好きが観る「夏の砂の上」
「夏の砂の上」
脚本・松田正隆
演出・栗山民也
世田谷パブリックシアター
観てきました!
こんな観劇体験初めてでした。
今、この時間をこの場所で過ごすことの贅沢さを味わい尽くしました。美術館や映画館などで流行っているアレですね、「没入体験」!
ストーリー
長崎の、坂の多い港町。仕事も人間関係も、そして雨の降らない暑い夏の日々も、町に閉塞感をもたらしている。
4歳の息子を事故で亡くした小浦治。家出をした妻はどうやら不倫をしているらしい。治のもとに預けられた姪の優子は16歳。よくしてくれたご近所さんの死、妻との決別、母親に連れられ、去り行く優子。仕事で切り落とした指。
治は何の光に目を細めたのか
感情の発露をしない治を軸に置くことで、周りの人間の、そして発露できなかった治の感情を、深く深く考えてしまう。小さな波紋が広がっていくのを観察するように舞台を見つめ続けた。
残された治が、何かの光に目を細めて手をかざすラストシーンがなんだか象徴的だなぁ。
この舞台に対して、テーマや伝えたかったメッセージを、考えることは、そもそも不粋なんじゃないかと思いますが、そこは性分で。
あのシーン。あの美しくも、何もないラストシーンは、優子というひと夏の輝きを失ったことを示しているのではないだろうか。
子供、妻、仕事、知人、指、と失い続けてきた治が、またひとつ、失った瞬間。それを目撃したのではないだろうか。
閉塞感の中、耐えきれず変化を求めて去り行く人たち。何もせずそこに留まることで、それを淡々と見送ってきた治。
おなじ「捨てられた」存在の優子は、治に手を差し伸べる。「おじちゃんと一緒にいてあげる。どこか一緒にいこう」治の返答は、彼らしいものだった。
もう自分は機械のように仕事を淡々とやっている、いっそ機械になれたら。
それは優子からの誘いに対する、明確なNOだった。
母親が迎えにきた日、優子はさよならの後にもう一度戻ってくる。自分の麦わら帽子を治に渡して。それが餞別だった。
差し伸べられた手を、渡された麦わら帽子を、しっかり握って繋ぎ止め、そこから何かを始めることもできたはずだ。彼には光が見えていたはず。
なのに、彼は眩しさに目を細めただけだった。
光を遮る手からはついに指まで失って。
そうしてひと夏の輝きも終わったのだ。
その失った瞬間を丁寧に目撃させることで、私たちはどう感じたか。問われているような気がした。
田中圭は小浦治を演じられない?
今公演は、田中圭という私にとって吸引力がありすぎる俳優が、治を演じていたので、もっと普通のオジサンオジサンしてる俳優さんが演じたら、どう印象が変わるのか、ふと思った。
例えば大森南朋さんや、安田顕さん、ムロツヨシさん・・が演じていたらどんなお芝居になったのだろうか?(彼らがおじさんだと言いたいのではなく、おじさんらしさをよりリアルに演じられるという意味で)
田中圭がオジサンを演じる、とは聞いていたが、声が高いからなのか、どこか可愛いらしい印象。その違和感が手伝って、舞台の中で際立って異物に感じる。彼だけが、別の次元の人というか。そのせいで、何もしない役柄なのに、妙な存在感を持つ主人公として成立している。このアンバランスさ、おそらく田中圭さん以外にはできないだろうし、数年後の田中圭さん本人にもできないのではないか。
彼の魅力といえば「関係性のリアリティー」だと思うのですが、今回の本に関しては、なかなかそこが表現しづらかったのではないか。何故なら発する言葉に「意志」がないから。
意志、というのはその役柄のパーソナリティと相手との関係性を表す上で、核となる。
例えば、次の夫婦間の何でもない会話。
妻「今日、ユウタが小学校でね、ちょっと大変だったのよ」
夫「うん」
夫の意志として考えられるものは、
・子供に心配なところがあり、詳しく聞きたい
・妻には興味がないが、子供の情報は得たい
・冷え切った関係なので早く会話を終わらせたい
・疲れているから放っておいて欲しい
など様々な意志を「うん」の中に表現できるのだ。その表現の結果、妻との関係が良好なのか、子供に興味があるのか、互いの力関係はどうか、どんな家庭なのかが見えてくる。
田中圭という俳優はこの「意志」の操り方がうまい。
彼の演技は、会話をしている相手との関係性が自然と浮き上がってくる。関係性がわかれば物語の中の立ち位置もはっきりする。
これが田中圭の演技の「わかりやすさ」の所以なのだ。
なのに今回は「うん」の中には感情はあれど表現できない、してはいけないとすら思えるほどの役柄。
おそらく俳優としてはかなりやりがいのあるキャラクター。
一方で、いくら表現をしても、ゴールには辿り着けない心許ない役でもある。
治はこの芝居の中で何がしたかったのか。
おそらく「何もしたくなかった」のだ。それはイコール、意志がないことである。
つまり演じる上での「核」がないキャラクターだったのだ。演じる上でかなり難しい役だったはずだ。
さて、そんな難しい役を、田中圭はどうクリアしたか。
「意志はあるが、表現できない」というやり方で、小浦治という役を構築していったのだ。
素っ気なく静かに、もっとドライに演じることも可能だった。でも「表現できない」という葛藤を見せることで、「表現できる」周囲との対立構造が浮かび上がる。
周囲の人間は治に「表現」を求めて迫る。(陣野が再就職を勧めるシーンなどはわかりやすい)
治は表現したくても、できない辛さで応じる。やがて求めることに疲れた周囲は、治の元から離れていく。
その別離にも意志を表現できない治。
求め合っていながらも、混じり合えない人間の物哀しさを感じずにはいられない。
やがて治は意志を表現したいという気持ちさえ諦めてしまったのだろう。
もしまだ彼に表現したいという意志が残っていれば、優子の「おじちゃんと一緒にいてあげる」という言葉にも頷けたはずなのだ。
だが、それはもう彼にとって遅かったのだ。
観客が、優子と一緒に憤り、悲しみを覚えるのは、治の「したかったけど、できなかった」という過程を目撃してきたからだ。
優子と恵子が惹かれた治という人間
優子と治は似ている。
家族に捨てられ、自分のことを蔑ろにしている点において、似た境遇の似たタイプと言える。
でも優子と治は正反対だ。
退屈で、乾いた街に閉じ込められていながら、ただ何かが過ぎ去るのを待つ治。
優子は足掻いた。
誰かに自分を求めて欲しくて、身体を餌に立山を誘った。
治に心を動かされて、一緒にいようと声をあげた。
「どうせ」という枕詞を持ちながらも変化を求め、踠き続けた。
それはもしかして、妻・恵子のかつての姿なのではないか。
治の前では、何人もの人間かこうして踠き、疲れ、諦めて、去っていったのではないか。
そのような想像の上で、治を演じたのが田中圭であることに違和感はない。
38歳の田中圭に治を宛てた理由
彼はこの世界でどこか異物であり、周りの人間の気を惹きつける。
田中圭の人気のひとつに、人間力があるように思う。
明るく豪快な人柄には、共演者も、ファンも魅了されてきた。
「そのへんにいる普通の兄ちゃん」のようでいて、インタビューや周囲の評価から垣間見える、生き物としての賢さには毎度驚かされる。彼がバラエティーに引っ張りだこの要因もそこにあると思う。もちろんそれは、脂が乗った今の時期だから、尚一層輝いてみえるという一面もあるが。
人の目を惹きつける力が強い今こそ、治という役を演じるべきタイミングだったのだろう。そしてその効果は遺憾無く発揮された舞台だった。
数年後の田中圭には演じられない役だった、と先ほど書いたが、正しくは数年後の田中圭なら別人の小浦治を作り上げただろうと訂正する。
今公演の小浦治にはもう二度と出会えないだろう。
もし数年後、田中圭が同じ役を演じる時には、人間力の引力をもっと抑え、異物感を排除し、葛藤を見せない小浦治を演じるかもしれない。(ファンとしてはそれも見てみたいとも思う。)そうなってはじめて産まれる物語があるはずだ。何故なら「夏の砂の上」という作品には、いかようにも演じられる余白が、広大に存在しているからだ。
観客である私たちが、様々に感じ取ることができるように、演者にも大いなる自由があるのだ。
もしかしたら、今公演も千秋楽には、別の作品に変容しているのかもしれない。
近い未来に「夏の砂の上」をご覧になる皆さんは、どんな感想を持つのだろうか。
千秋楽が今から楽しみだ。