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いつ死んでもいい


そう思いながら生きている。

いつ死んでもいい、というのを見て、聞いて、ネガティブにとらえるだろうか、ポジティブにとらえるだろうか。

別にどちらが良いとか悪いとかは、ないのだけれど、

いつ死んでもいい、と私は思っている。


私の母は片付けられない人で、実家はずっと散らかっている。今も。

私はそれが嫌だったから、片付けようとして、中学生の頃から、色々捨てていた。

勝手に捨てたのも良くないとは思う。

その頃は自分で買ったものでもなかったのだから。


父が買ったものは父のもので、母が買ったものは母のもので、家族のものではなかった。

両親には不仲の印象しかないけど、考え方は同じで、そっくり夫婦だと思っていた。


実家とは書いているけど、実家は私の家ではない。帰りたい場所ではない。

家を出る時、自分の物は何も残さなかった。


母にとって、物=母で、捨てる=早く死ねって言われているのと同じことらしい。

物を捨てた時、家を片付けたかっただけなのに、早く死ねってこと?とブチギレられた。

意味が分からなかった。

母が死んだ後に片付けるのが大変だから、捨てているとでも思っていたのか。


会話の少ない親子だから、お互いに理解できないことが多い。


私はもう早くから色々なことを諦めていて、

無駄な労力を使うことをやめていたから、

会話にならない話をしないことにしていた。

ムカつきはしても喧嘩にはならない。したくないと思っていた。

喧嘩は嫌いだ。


ブチギレられてからは、散らかっていようが、どう暮らしていようが気にしないことにした。

今はもう、家も出たことだし。

親であろうと関係ない。

好きに生きた方がお互いに健全でいられる。

今も必要最低限のことしか話さない。

喧嘩をしてるわけでもないけど、仲が良いというわけでもない。

死んでから、もっと話しておけばよかった、と思いそうもない。

誰かと、どこかの家族と、比べれば、そういう考えも出てくるかもしれないけど、比べなければ、なんてことない。

この考えは1日や2日で積み重ねてきた考えではないから、揺るがない。

でもこの考えが正しいとも思っていない。

自分にベストだというだけだ。


母が捨てられない人ということの反動か、私の持ち物はとても少ない。

卒業証書も成績表も、文集もアルバムも写真も捨ててしまった。

自分の存在自体をこの世から消そうと考えていたこともあったので、とにかく物を捨てた。

自分が死んだ後に何も残したくなかった。


でもここ1、2年で少しずつ考えにも変化が出てきた。

自分が考えたことだけは残しておこうという気になってきた。


過去も未来もなく、今しか存在しないという考えを知ったからかもしれない。


自分が今考えていることが過去の自分を救うことになるかもしれない。

自分が昔悩んだり、考えたりしたようなことで、今悩んでいる人のことを救えるかもしれない。

そう思った。

無名で肩書きも何もない私が考えたことで誰かを救えたら。

救うとまではいかなくても、何かを考えるきっかけになれたら。


いつ死んでもいいと思いながら、そんなことも考えている。


読んでいただき、ありがとうございました。

良き日でありますように。

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