言葉よ

前回のnote以来もう1ヶ月、おそらく毎日怒っている。

先日ツイッターで「怒るのって娯楽」というフレーズを見かけたけれど、私においてはこれは全く当てはまらない。怒ることって、身体にも心にもストレスになっているな…としか思わない。娯楽などと評されるような爽快なものなどであるはずはなく、できれば怒らずに暮らせる方がありがたい。

これから訪れるせっかくの良い季節を、いつもと同じく穏やかに過ごせたら…などと思わないでもないけれど、今年の春は穏やかさとの引き換えに、ひたひたと迫り来る見えざる恐怖、そして、それにまつわる無数の怒りを携えて暮らす覚悟を決めた。逃げ出しようのない現状なのだから、仕方がないし、生きていられれば、春はまた来るし。


何に腹が立っているのか?

一つひとつを思い返してみると、そのほとんどが「言葉の軽視」ということに繋がっていると気づかされる。

各国で早々に行われている全国民への外出制限、それとペアになっている一律給付について、「現実的ではない」なぜなら、「私たち国会議員や国家公務員は収入に影響を受けていない」からという詭弁。そんな寝言は逐一聞かされずとも、腹わたが煮えくり返るほどに存じている。それなら一旦給付して、後から差し引くことができそうなことくらい、小学生でも思いつくだろう。

「任命責任は全て自分にある」と口先だけで済ませ、それで全責任を取り終えたとすら思っていそうな一方で、これまでの政府の対策については、「責任をとれば良いというものでは、ありません」(この一呼吸置く間がまた、いっそう腹立たしい)と口走ってしまうその二枚舌ぶり。

残すべき文章は改竄されたり無いものとし、その言葉を隠蔽するために、周辺の人たちの言葉をも支配して、その責任の呵責に耐えかねた勤勉な公務員が自ら命を落としても、さらなる嘘の言葉の積み重ねでそのことすらも矮小化。そのまま何食わぬ顔で国民の前に姿を現しては、毎度お馴染みの左右に浮かび上がる空虚な活字をただただ読み上げるだけ。あれほど心の無い上滑りする言葉を私は他に聞いたことがない。


言葉を軽んじるときには、もれなく言葉による跳ね返りがあるものと信じている。

言葉にはそれほどの力がある。言葉を甘く見てはいけないのだ。

これは私個人の畏怖であり祈りでもあるが、現政権に跳ね返す言葉を強靭な剣にして、日々戦っている人たちが大勢いることも、この救いようがないように思える日常の、圧倒的な支えとなっている。

感情に任せて怒ることは全くもって目的ではない。何に怒り、なぜ怒っているのかを自分が伝えられる言葉でしっかりと表明すること。

もちろんそれは、今の国内での対応に責任を持つものに向けられるべき言葉だ。「責めるな、じぶんのことをしろ。」のうちの「責めるな」は、その責任のない市井の人びとに対して、「じぶんのことをしろ。」は、責任を果たすべき人物や機関に対して本来向けられるべき言葉ではないのか。こう書いた本人は、真逆の意味で発しているようだが。

言葉は向ける方向によって毒にも薬にもなりうる。その方向を間違えぬよう、しっかりと見定めること。そして、誤解や恐怖を煽るような卑劣なツールとして言葉を貶めている報道には、くれぐれも留意すること。本当の言葉を見極めることは死ぬまでついて回る。

真っ当な言葉を使うことさえできていれば、あとはより良い未来を一刻でも早く手繰り寄せていくことを切に願うだけだ。

「森羅万象を担当している」などというまやかしの暴言を吐く怪物に、言葉の威力を思い知らせるときが迫ってきている、と信じたい。信じないとやってられない。


言葉よ!



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