宗教を持たないと、「歴史」を語れない時代が(再び)来るのか?
創価学会の月刊紙『創価新報』の9月号で、同学会青年部長の西方光雄さんと対談しました。なんと(?)前後編で、来月にも続きが載る予定です。
紙の現物の入手は少し難しいかもですが、「逆F」で知りあいの創価学会の方に頼んでみるとか。また、聖教新聞Webの会員記事にもなっています。
それで、同紙ではこんな話をしているのですが、
実はこのテーマを意識したのは、2018年の夏、建築雑誌『GA JAPAN』の「建築史特集」での取材でした。いまは単著に再録していますので、そちらから該当箇所を引くと――
そうなのです。「いま」だけを見るなら、他人を殴って持ち物を奪うことが、利益を最大にするかもしれない。炎上の最中には勝ち馬に乗り、風向きが変わったら自分も手のひらを返すのが、最適な戦略かもしれない。
モラルを持つというのは、時間の幅のなかで考えられるようになることと同義で、だから前近代に道徳の基盤とされた宗教は一般に、なんらかの「救済史観」を備えていることが多い。
近代の色んな歴史観とは、そのゴールの内容を世俗化したものだったわけです。「民族の栄光の復活」とか、「共産制社会の実現」とか。最近までブームが続いたのは、「全世界を自由民主主義の国にする」とかですよね。
今日の問題は、そうした「救済史観のバージョン違い」がことごとく失墜して、人気がなくなり、①相互に排他的なガチンコ宗教に先祖返りするのか、②無目的・無方向な「いまさえウケれば」で生きていくのか。原理主義か大衆消費社会かの、悪い二択に陥ってしまったことでしょう。
ロシア正教の召命意識に憑かれているともされる、プーチンが爆走するのはもちろん①の路線で。それを止めなくてはいけないのですが、しかし対抗せよと煽る側がその実、②の「いまだけバズれば」しか考えていないようでは、まぁ勝敗は見えたよねと冷笑されるのも致し方なく。
そうした時代に適切な時間の感覚=歴史意識を取り戻すことが、果たしてできるのか。信仰がある人の場合は「ウチの教えに沿っていきます」になるとしても、それ以外――つまり日本人の大多数はどうなるのか?
そんな課題を議論することで、信仰の有無をも架橋する対話になっていればと思います! 多くの方の目に触れますなら幸いです。