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なぜ日本のメディアは、ウクライナにもガザにも「飽きる」のか
5月に戦後日本についての歴史書を出すが、その次は「令和日本」の最大の課題である、堕落した専門家が振り回す社会の分析を書籍にする予定だ。温厚なぼくとしては「他人の悪口」で本を売りたくないが、穏当にことを済ませる試みを妨害し、嘲笑ってくる人がいるのではやむを得ない。
なにせ、休戦すらなく今日も続くウクライナ戦争でも、もう「ホットイシュー」じゃないから検証しない、と居直る編集者がいる世の中である。いったん停戦に至ったガザ紛争となったら、今後より悲惨な事態が再燃しても、へらへらシカトして他のイシューを探しにゆくのだろう。
そんな状況を変えるためにリサーチしていて、ぼくよりだいぶ前から優れた考察を記した書物に出会った。拙著の下書きを兼ねて、一部は伝わりやすいよう原文を改めつつ、ご紹介したい。
日本人はどうして、世界で生じた問題にひとしきり殺到した後、自分が飽きるや「今はホットイシューではないので」と称して放り出すのか。著者はこの問いを、2つの角度から掘り下げている。
非合理を自己のうちに還元してこれを内心の問題として解決する、という方法は、……社会問題を自己の内心の問題として、これが心理的に解決すると、客体として社会問題も解決したとみなして忘却してしまうという形にも現れる。
この傾向は令和にも明確に存在し、たとえばウクライナ問題を「ウクライナの痛みをわが痛みとする」という自己同定化で受けとるが、同時に、この問題を心理的に解決して ”痛み” なるものが消えると(これは実際には痛くないのだからすぐ消える)、同時に客体としてのウクライナ問題も消えてしまうという形になる。
従って、この ”痛み” は一時期が過ぎれば ”一人よがり” の深刻ぶりにしかならず、合理的解決に何ももたらさない。
著者はこれを、儒教の伝統から来る日本思想の負の遺産として把握する。「修身・斉家・治国・平天下」のように、マクロな世界の課題をミクロな個人の生き方に落とし込む発想が、強すぎるんじゃないかというわけ。
歴史学的には少し怪しい。しかし実際には痛くなさそうな ”一人よがり” の深刻ぶりが、合理的解決に何ももたらさないのに、なぜかセンモンカの口をついて自己啓発のポエムを詠み出す現象の説明としては、よく書けている。
もう1つの視点ではむしろ、キリスト教に由来する西欧のインテリの悪癖が、近代以降の日本に流入した側面を把握する。フランスでの刊行と思しき知識人批判を紐解きつつ、著者はこう述べる。
彼らは代理によって英雄になる。ウクライナ支援のデモや署名によって、凍土で戦う無名の人びとと自らを同一化する(すなわち殉教者自己同定)。同一化が全面的であるためには、ロシア軍の銃砲が光ることが必要なのだが、民主主義国には、そんな者はいない。
だから彼らは、自分が喜劇役者であることを認めるか、それとも(今にも殉教する)全体主義世界に生きていると信じ(かつ信じさせ)るかの、どちらかだが、知識人は、むろん後者を選び、自分を迫害の中に生きる英雄に祭りあげる。
わかりやすく言えば、実際には殉教の危険がないところで殉教者ぶる、すなわち当事者のふりをする。これによって「もし私を批判するなら、それはウクライナの英雄的抗戦を否定するのと同じだぞ!」とのオーラを醸し、やりたい放題のかぎりを尽くすというわけだ。
著者はそうした営為を「知的テロリズム」と呼ぶ。その定義は「自らの理念を、信仰を、他人に押しつけ、自らの行動を周辺の人に押しつけることを許すところの物理的・知的手段一切をひっくるめたもの」だから、今日ならさしずめ、SNSでのレスバやネットリンチだろう。
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背景と文脈はこちらをどうぞ
……さて、あまりにそのまま当てはまるので画像を貼っちゃったけど、さっき「今日ならさしずめ」って書いたのに気づいたかな? そう。引用した書籍は今日のものではなく、ウクライナ戦争とはもともと関係ない。
山本七平の『存亡の条件』が刊行されたのは、1975年。なので、ひとつ目の引用箇所は沖縄問題(72年に日本に返還)、ふたつ目はベトナム戦争(75年にサイゴン陥落)を扱う記述を、ぼくがちょこっと直したものだ。
今年は同書からちょうど半世紀だけど、なんとまぁ、進歩のないことか。山本がこだわったとおり、それはむろん1945年の敗戦から、日本人がなにも学べていないことをも意味する。
海外の課題にいっちょ噛みで食いつく日本人ほど、適切にそれを処理できない不変の欠陥ぶりを、山本は「一見開国をしているように見えても」「精神的な鎖国」が続いている、と表現した。よくある物言いだけど、そこにはフィリピンで自壊する日本軍を見た、彼の痛恨が籠っている。
では鎖国とは何なのか。それは前提を動かさない、ということなのである。
(中 略)
徳川時代には「飛び道具は卑怯」という規範があった。そしてこれによって銃器なしという前提をつくり、その中で剣の優劣を競う。その優劣を競うという点では自由競争だが、厳密な意味では自由競争ではない。
この伝統は日本軍に受けつがれ、日本軍は、日露戦争時とほぼ変わらぬ前提を絶対動かさずに、この中で技を競い合い、それに熟達することが無敵に通ずると本気で信じていた。そして、前提が変われば、その術は一挙に無力になるとは考えなかったのである。
今日のセンモンカにも「自粛が感染を抑え込む」「武器支援でウクライナが勝つ」「納付増で年金が安心になる」……など、実に多様な前提を動かさずに、庶民に説教を垂れる例が多い。しかし前提がまちがっているので、まもなく彼らは旧日本軍と同じく「お前らの努力が足りないからだ!」と、責任を転嫁する単なるパワハラ屋になる。
上記の記事でご紹介した、1/22の『中外日報』への長文寄稿を、同紙が誰でも読めるオンライン版に転載してくれた。そちらでも山本の『存亡の条件』を引いているから、ぜひあわせて読んでくれたら嬉しい。
ちなみに、この程度ではまだまだ批判が足りないと思っているので、終わりませんからね(笑)。来年刊の著作を目指し、江戸の名匠が日本刀を鍛えるようにしっかり焼きを入れ続けますので、ぜひご期待ください。
(ヘッダーは2/6の The Seattle Times より)