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簡単と難しいのパラドックス
昨日のゲームマーケットでは、色んな来場者の方とお話しできて楽しかった。ブースに立ち寄ってくださった方、ありがとうございます。
販売した『ボードゲームで社会が変わる』(共著)の個性は、全面的にケアや社会支援の切り口に立って、〈対面で人と遊ぶ〉営みの本質を論じているところなのだけど、嬉しいことに、関係者が感想を寄せてくれる例も増えている。
たとえば静岡にYokaYoka(余暇との掛詞)という、不登校やひきこもりの人たちにゲームを通じた交流の場を提供している団体がある。ぼくは2020年、コロナ禍が小休止してGoToとかやってた時期に、講師として呼んでもらって、加藤浩平さんとはその時に知りあった。
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当時は「県外者は入店禁止」の飲食店を
本当に見かけて驚いた。
その代表の前田嶺さんが送ってくれた『ボードゲームで…』の感想に、初心者を支援するためだからといって「簡単なゲーム」を選べばよいわけではない、と記した箇所への共感が書かれていたのは、とてもありがたい。
簡単、というのはしばしば「本人がひとりだけで、他の人と相談しなくてもできる」状態として定義される。簡単な宿題なら、親や、まして家庭教師の力を借りる必要ないでしょ、といった風に。しかし、そうしたゲームが支援に向いている=「プレイする人に優しい」かは、別の問題だ。
実際にブラックな職場では、ひとりでもできるくらい「簡単」ではあるけど、することに意味の感じられない単純作業を強要して、離職に追い込むといったハラスメントがよく起きる。意味は「きっと自分と同じように、他の人も感じているであろうもの」として経験されるから、それを味わうためには、ひとりでプレイできてしまうことは逆にマイナスになる。
だから初心者とプレイするときは、これならひとりでも遊べるでしょという発想で「簡単」なゲームを選ぶよりも、むしろ適度に「難しく」て、まわりと相談しながら進めたくなる作品の方がよかったりする(ぼくの他にも挙げる人がいて嬉しかったのだけど、たとえば『カルカソンヌ』が好例だ)。
気づいてほしいのは、いま、ボードゲームの中ではなく外でこそ、この「簡単と難しいの逆説」が、おかしな事態になっていることだ。
新型コロナウイルス禍の最中には、マスクをしろ・外食をやめろといった「ひとりごとバラバラにできる=簡単でしょ?」という対策ばかりが、大声で叫ばれた。逆に、どの程度まで感染を容認して病気と共存していくのかという「話しあいが必要=難しい」課題は、徹底的に放置された。
で、結果はどうでしたか? 世界中のあらゆる国民がお互い話しあってマスクを外した後でも、最後までつけ続けて笑いものになって、楽しかったですか?
コロナでもそうだったけど、政治を「簡単化」する最強のツールが現金給付だ。みんながお金を欲しがるのは、それが使うも貯めるも「ひとりで好きにできる」道具だからで、もらうことに反対する人はいない。
だからコロナの後も、この国の政治はヤク中みたいなおカネバラマキ中毒に陥って、戻らない。ご存じのとおり、どんな世の中を作ればみんなが子どもを産みたくなるか? といった「難しい」問題は一切スルーして、今の政権は子育て世帯の票を買うべくカネ! カネ! カネ! カネ! である。
言い方を変えると、あげれば「ひとりで使えるんだから、他の人と話しあう必要ないよね」というお金は、社会を個人ごとのバラバラに寸断し、民主主義の体力を弱める危険ドラッグにもなり得る。そして、実のところ様々な事情によって、ほんとうに「ひとりで生きていける」額のお金が、国から支給されることは決してない。
あまりにも「簡単」なやり方に慣れすぎると、人は互いに話しあう際の作法を忘れて、いつしか他人と一緒に居ること自体が「難しく」なってしまう。そんなパラドックスが、ボードゲームの中でも外でも広がっているように思う。
P.S.
トップ画像は、YokaYokaさんが年明けに静岡市で開催予定のイベントより。チケットもPeatix で販売中とのことです(今回は、私が登壇するものではないので、その点は誤解なきよう願います)。