佐藤卓己先生との対談完結しました
3回に分けて連載してきた、創元社noteでの佐藤卓己先生との対談が、昨日完結しました。佐藤さんの『池崎忠孝の明暗』、および同書を皮切りとする「近代日本メディア議員列伝」シリーズについて、Zoomで論じあった今年7月のイベントからの活字化です。
1回目は、まさに同シリーズが日本近代史の研究史上で持つ意義について。2回目は表現規制やメディアビジネスの陥穽、3回目は非常事態下における政治のあり方を主に論じています。
特に2~3回目の内容に照らして痛感するのは、私たちが戦前から「進歩」してきたとする神話は、もはやほとんど意味がないということ。池崎忠孝(1891-1949)の時代に顕在化した問題は、手つかずのまま戦後を通じて残り続け、近日むしろ悪化しているものさえあります。
一例として、2回目では「戦時中に行われた『検閲』は、戦後における業界の『自主規制』と、実質の面でどこまで違ったのか」を議論しました。その際に私が話題に出したのが「映倫」と、表現の自由をめぐる判例として著名な映画『黒い雪』訴訟です(1969年結審)。
『危機のいま古典をよむ』でも紹介したとおり、私は昔、1979年生まれなのにそれ以前の政治色の濃い日本映画ばかり好んで見る変な高校生だったので、武智鉄二という人もこの『黒い雪』裁判で被告となった、反体制的なエロ映画の監督としてしか長年知りませんでした(若松孝二みたいな感じというか…)。
実際には、武智の本領は歌舞伎の翻刻・創作・演出で、その道の弟子にあたる作家の松井今朝子さんが、生前の交遊を回想録『師父の遺言』に詳しく書いています(強調と改行は引用者)。
こんなのは「ダメな表現だ」、よって「社会に害を与えるので禁止していい」とする発想の裏には、いつの時代にも(実は表現の問題に留まらない)政治的な狙いがついてくる。だから表現者たるものは右も左もなく、自分の思想とは対立する表現であっても、その自由を守らなくてはいけない。
戦争の体験を経て、そうした感覚が自ずと息づいていた往時に対して、目下のSNS社会の(自称)「文化人」たちはどうでしょう。
目にしてイラっと来た表現があるごとに「こんなものは要らない」、規制するには「多人数の抗議で圧力だ」といきり立ち、異論が寄せられると「批判する人は意識が低い」と屁理屈をこね、最後は「私はその表現に傷ついた被害者。全面的な同意以外は二次加害!」なる居直り。いわゆるキャンセル・カルチャーの担い手には、恥ずかしいことに歴史の研究者も多数入っています。
実は、そうした(自称)意識高い系SNSユーザーのふるまいこそが、悪名の高い戦時体制下の「検閲」の背後にあった大衆社会の暴走とも、まったく同じ構造をしている。たとえば、そんな議論を対談2回目ではしています。
他の回も含めて、お楽しみいただけるなら幸いです!
P.S.
松井今朝子『師父の遺言』は、女性の目で見た戦後史の証言としても貴重な内容です。1953年生まれの著者は、72年に大学紛争最末期の早稲田大学に入学。修士課程(女性は今より珍しかったはず)を終えた後、研究者ではなく文化産業の道に進み(これも珍しかった)、80年代には演劇ライターのはしりになる。
なんとなく「学生運動からシラケを経てバブルへ」でわかった気になりがちな時代の実像が、武智鉄二という破天荒な怪傑の相貌とともに、肉感を伴って見えてきます。