約束をもう一度(閉鎖病棟日記⑩)
居場所
11月の頭に入院して、約3ヶ月。
今日、私は閉鎖病棟を退院する。
わたしがいた病棟は急性期の患者が来るところなので、入院期間は最長でも3ヶ月と決められている。
つまり私はMAXギリギリまで入院していたことになる。
大学病院ということもあり、病棟はホテルのように綺麗だった。
自分の病室を見回す。見慣れた緑色のカーテン。
木目の床頭台。真っ白で清潔なベッド。
私の部屋は西向きの窓側で、夕方になると沈んでいく夕日が見える。
南向きの病室からは海が見えるらしい。
このロケーションの良さが、いつも季節や気候を感じさせてくれた。
突き抜けるような空と青い海を見ながらたくさん歩いたテラス。
わたしがいつもイヤホンで聴いていたのは、
『この空がトリガー』(=LOVE)
『Magic of love』(太陽とシスコムーン)
『深夜ラジオを聴き続けて放送委員になった奴』(もののけ)
…などなど。
これからはこの曲やラジオを聴く度に、ここで過ごした時間を思い出すのだろう。
大好きな場所だった。
緊張していたSSTや作業療法も、途中からは心の底から楽しんでいた。
SSTは、人とのコミュニケーション、とりわけ自己主張が苦手なわたしに必要なスキルを学ばせてもらった。この学びは、きっとこれからの生活で活きてくると信じている。
週1回、金曜日の作業療法では、ポスターやマラカス作り、クリスマス会、ツリーの片付け、今年の漢字一文字、書き初め大会、坊主めくりにトランプ、卓球やバドミントン…
様々なレクリエーションに参加した。
いつも私たちのことを考えて楽しい時間を作ってくれた看護師さんには頭が上がらない。
最初は先生や看護師さんの数が多すぎてなかなか顔と名前が一致しなかったけれど、今では声だけで誰かわかるようになった。
わたしには、大好きな看護師さんが沢山いる。
あまりにも濃い3ヶ月間だった。
出会った患者さんは20人近く。
入院生活を支えてくれた看護師さんは14人。
精神保健福祉士さんにもお世話になった。
入院期間中は主治医の他に担当医の先生も付いてくれた。優しい女医さんだった。
たくさんの人と出会い、別れた。
自分の弱さに何度も泣いた。
この夜をあと何回乗り越えれば楽になれるのかと深く絶望した。
その度に、周りの人の優しさに救われた。
ここは、心の病と戦う私たちの避難場所。
からだとこころを、休憩させてもらえる場所。
初めて踏み入れた居場所は、この世界のどこよりも温かかった。
私たちは、ひとりじゃない
患者さんは、みんな様々な疾患を抱えていた。
うつ病、双極性障害、不安障害、摂食障害、統合失調症、アルコール依存症…
病名こそ違うけれど、みんなボロボロで、みんな苦しみながら、戦っていた。
社会でひとりぼっちだと感じていたわたしには、こんなにも仲間がいた。
ここにいる時、わたしたちは1人じゃなかった。
それでも、
退院日が近づくと、毎日が不安で仕方がなかった。
日常に戻ること。社会に復帰すること。
厳しい人間関係の中に飛び込んでいくこと。
そして、死にたい気持ちと1人で戦う環境に戻ることが、何よりも怖かった。
死にたくなった時、ここにはいつも話を聞いてくれる人がいたから。
ある夜そんな思いを吐き出したわたしに、大好きな看護師さん(いつもお母さんのように接してくれるのでこっそりママと呼んでいた)が言ってくれた。
「1人だと思うかもしれないけど、夜永さんは1人じゃないよ。会いたかったら、ここに会いにきていいんだよ。」
退院日に怯えるわたしに、若く可愛い看護師さんのペアは2人でこう言ってくれた。
「退院しても、夜永さんは1人じゃないから。」
私の受け持ちだった男性看護師さんはこう言った。
「これでさようならという訳じゃない。夜永さんは1人じゃないし、辛くなったら休むのを繰り返していけばいい。」
ここにいる人はみんな、口を揃えて
「1人じゃない」と言ってくれた。
そのたった一言が、嬉しかった。
まるでわたしの背中に手を添えてくれているようで、心強かった。
自分でなんとかしよう、自分如きが人を頼ってはだめだといつも1人で抱え込もうとするわたしに、看護師さんたちは何度も「人に頼っていい」と言い続けた。
甘く、弱い自分が、ずっと許せなかった。
許せないから、消えてしまおうと思った。
だけどわたしには、頼っていいと言ってくれる人が、場所が、たくさんある。
きっともっと甘えていい。頼っていい。
それで生きられるなら、それは多分死ぬことよりもずっといい。
死にたい時、人はいつも孤独で。
だけど、貰った言葉は消えない。
わたしは絶対に1人じゃない。
独りじゃ、ない。
その事実だけで、この先を生きていける気がする。
最後のゆびきり
「わたしとゆびきりしてもらえませんか。」
退院が決まってから、看護師さんと話す度にお願いした。
「わたしにとって、約束はすごく大きな力を持つんです。ICUにいた時も、先生とゆびきりで『死なない』って約束して、だからここまで生きてこられた。看護師さんと約束したら、その約束を裏切らないために、わたしは生きられます。」
そう伝えながら。
看護師さんたちはにっこりと微笑んで、
腰元に下げられた消毒ジェルを手に擦り込み、
小指を差し出してくれる。
1人の看護師さんが言う。
「夜永さん、約束だよ。絶対に死なないでね。」
もう1人の看護師さんは言う。
「この約束は90歳…100歳まで、有効にしましょう。」
消毒ジェルの柑橘の香りが私の心を優しく包む。
涙が頬を伝う。
これは後ろ向きな涙じゃない。
私が前に進んでいくための涙だ。
ICUに運ばれた日のことを思い出す。
真っ白な部屋で交わしたあの日のゆびきりに、
もうひとつのゆびきりが重なる。
もう2度と、同じ過ちを繰り返さないために。
命の約束をもう一度。
リストバンドが外れ、閉ざされた世界から一歩を踏み出した私の目に、もう涙は残っていなかった。