ダニエル・C・デネット
昨日、偶然、ダニエル・デネットが今年の三月に亡くなっていたことを知った。彼はリチャード・ドーキンスと並べて名を挙げられることの多い無神論者の哲学者だ。
実は、彼の『Breaking The Spell』という本をダラダラと何ヶ月もかけて読んでいる最中なので、自分の中でちょっとしたニュースだった。
この本は宗教をタブー視せずに科学的な議論の俎上に載せようと試みている内容だ(たぶん)。たぶんというのは、本の方を読了していないからである。オーディオブックでは一応最後まで聴いたのだが、オーディオブックというのは私の場合、読んだ気分になるだけで実際は全然頭に入っていなかったことに後で紙の書籍を読み直して気づくという経験を何度かしているので、本番前のウォームアップ程度の位置付けになっている。
そういうわけなのでデネット氏の主張はひとまずわきに置いておいて、本書でのこれまでのところの私の収穫は、彼が引用している行動分析学者B. F. Skinner によるの鳩の実験(1948年)とジョン・フラム信仰の話。専門家たちは「いや、全然証拠が足りないよ」と言うだろうが、素人の私の中では宗教の起源はもうこれとHADD (Hyperactive Agency Detection Device) 仮説で十分解明されたという気分になっている。もう満足。
昔、あるエンタメ小説で東京のあちこちで起きた爆破事件の黒幕が実は社会学者だっというのを読んだことがある。彼は、社会学は倫理上、実社会を対象にした実験を行うことが難しいが、自分はどうしても実験したかったから爆発物の専門家を匿名で雇って連続爆破テロを起こしたと話すのだ。それを思い出した。ジョン・フラム信仰は意図されずに行われた原始宗教の生成実験みたいなものだと思う。
さて、宗教の起源の問題が片付いたところで、次は人類は(こんな大層な言葉を使うのはいつも気恥ずかしいんだけど)どう宗教と付き合っていくべきかというのが私の関心事である。私は、実は神がいるかいないかについては興味がない。そして、宗教や宗教権威というのは人間が自己保存のために進化的に作り出したものだと考えている(これが事実であっても神の存在は肯定も否定もされない)。しかし、それにも関わらず、私は宗教は存続する方が良いと思っている。その理由は複数あるが、noteに長々と書くのも何なので一番の理由だけ端的に言うと、互いに牽制し合う複数の権威を持つことは人間が進化的に学んだ独裁を防ぐ知恵だと考えるからである。共産主義の国が宗教を弾圧して独裁に走るのがそれをよく示していると思う。
去年、哲学講座を受けたとき、私は課題エッセイとは別に自分の考えをまとめたものを2つほど先生に押し付け、無理矢理フィードバックをいただいた。そのエッセイの一つが、この進化論的な観点から見た宗教の利点だったのだが、先生は私の「世俗権威は知性(言葉)を代表する権威 (representation of the mind)、宗教権威は心(情動)を代表する権威 (representation of the heart)」という表現を気に入ったと言ってくださった。私は、この二つの権威が二輪車の両輪のようなものだと書いた。この世界を二つ車輪を持つことで安定して走る自転車に例えたのだ。
考えてみれば、国というものだって単なる合意に過ぎない。国境は概念であって本当に線が引いてあるわけではない。でも、私たちの多くが国が確固として存在するものとして振る舞っている。宗教も何ら変わらないのかもしれない。国と同様に法を持ち、信者に義務を課し、信者を保護する。ただ、その支配は国とは違う次元で行われる。
しかし、この二つの権威が対等であるなら、宗教を世俗政府の管理下に置くということは不可能ということになる。これが多くの先進国が抱える問題であると思う。宗教の教義を議論することをタブーとし、多文化共生を奨励する寛容な社会は、不寛容な宗教が広がるのを容易にする。その結果、世俗権威と宗教権威のバランスが崩れ、さまざまな軋轢が生じる。
では、どうすれば良いか?
私は、世俗権威と宗教権威がバランスを保ちながら併存することの利が無神論者と信仰を持つ人双方に理解されるという状態を目指すのが実現可能な道だと思う。利というのは、もちろん、二つの権威がライバル関係にあることで独裁が防がれ、その結果、人間の根源的な幸福に欠かせない自由と平等が守られるということである。
* *
ところで、デネット氏の本を読みながら思ったもう一つのことが、哲学者の役割って何だろうということ。今の時代、哲学者たちは、人類学者や社会学者といった従来の人文系の学者だけでなく、心理学者や脳神経学者や生物学者、ときには物理学者の研究を引っ張ってこなければ宗教や命や意識の議論ができなくなってきている。それでは科学の専門家でない哲学者の存在意義とは何だろう?(デネットは認知科学者でもあるそうなので、これには当たらないかもしれないが) ーそれは理念の提案だと私は考える。科学者たちの研究や過去の学者たちの著作から得た膨大な知識を整理し、それを元に新たな価値観や進化の方向性を提案することではないかと思う。
そういえば、どこかで「社会の劇的な変化は大衆の欲求として自然発生的に起きるのではなく、一人の思想家のアイデアが大衆に支持されて始まることが多い」と目にした気がする。マルクスみたいな感じか。誰の言葉かChatGPTに尋ねると、ヴィクトル・ユーゴかヘーゲルじゃないかとはっきりしない答えが返ってきた。まあ、誰でもいいのだけれど、私は哲学者というのはそういう社会に革新的な視点の変換をもたらす人たちではないかと考える。そして哲学者たちの言葉が力を持つためには、その知性を保証する権威機関として大学が必要不可欠だと考える……と、大学で哲学を勉強したわけでもないのに、人文学擁護をしてみる。😆