中世キリスト教美術の創造性
1、序
ここ半年、美術史を学んできて、古代やそれを復興させたルネサンスについては、私の中である程度イメージができてきた。しかし、その間にある「中世」という時代は、なかなか見えてこない。そもそも「中世」とは、キリスト教の価値観に基づいて、統治者層と教会が支配していた時代であろうと思うし、美術の分野においても、制作者が神に捧げるために作品(建築や絵画、彫刻、写本、祭壇画、金属製品ほか)を制作した時代であっただろうと思われる。
しかし、中世の制作者たちも人間である以上、自らの個性や創造性を完全に放棄して創作活動をすることは不可能だったのではないかと思う。だとすると、彼らは、どの部分で、どのように、自らの持つ個性や創造性を発揮していたのだろうか。
このようなことが私の中でずっと疑問としてあったので、このたび中世に関していろいろと調べてみた。
そうすると、中世の制作者たちが、主体的な姿勢をとり、創造性を発揮していた項目やテーマがある程度見えてきたのである。またその時代に芸術の発展・振興に尽力した統治者、支配者の功績についてもいくぶん知ることができた。
ということで、今回は、中世の、特に絵画と彫刻の分野における創造性の流れを見ていきたい。
2、「時代区分的に」制作者の創造性を見ていこう
キリスト教美術は、古代ローマ末期の文化をもとに、紀元2世紀末から3世紀初めにかけて地中海沿岸各地に出現した。もっとも東方世界と西方世界でその基本的な性格は異なっていたが、そうであろうとそれは発生から1500年以上にわたり、東西ヨーロッパの中核を担っていったのである。
1,初期キリスト教美術
キリスト教の出現後から5世紀後半にかけて産み出された東西キリスト教美術全体を初期キリスト教美術と呼ぶ。
313年のミラノ勅令によってキリスト教が公認されるまでは、残されている遺跡や遺品も少ない。この時代には教会堂建築よりもむしろカタコンベの壁画や、そこに埋葬された石棺彫刻、墓碑、燭台など、葬礼美術と総称されるものが代表作品となる。カタコンベとは、キリスト教徒が死者を埋葬するために作った地下墓所のことである。カタコンベの天井や壁に描かれた初期の絵は、その構図やモチーフを同時代の異教美術から借用したものが多いが、教義が固まり、教会の体制が整うにつれ、新約聖書や旧約聖書に語られている物語など、死後の魂の救済を祈念するにふさわしい主題がカタコンベの内部にとりあげられていく。
2,教会の勝利の時代
313年のミラノ勅令によってキリスト教が国教として認められてからは、コンスタンチノープルや、ローマ、パレスチナ聖地などに、各地で大規模な教会堂の建築が開始されていく。教会堂の円蓋や壁面は、豪華なモザイクによって装飾され、その後、モザイクは教会堂装飾の原型となっていくのである。
下記は、5世紀半ばに創作されたモザイクで表される大きな十字架とそれをたたえる使徒たちの姿の円蓋と壁画である。この表現では、建築空間に合わせて図像を体系的に構成しようとする制作者の意図がみられる。これは当時においては斬新な試みであり、キリスト教美術が古代ローマ末期の古典的な様式を離れ、華麗な金地や多様な装飾モチーフを取り混ぜた荘厳な美術を産み出していくもとになったことを表している。
「星空に輝く十字架とこれを拝する使途たち」420~425
Mausoleo di Placidia,Ravenna
3,ビザンチン美術
330年にコンスタンチヌス大帝が首都をコンスタンチノープルに移したことにより、帝国内の政治や文化の中心は東方へ移り、ここでビザンチン美術が栄えていく。帝都を中心として1000年以上にもわたって展開するこの美術は、ほかの地域のそれに比べて変化が少なく、後代まで様式や図像の一貫性を保ち続けた。
「イコン」の崇拝は6世紀にはすでに始まっていたとみられる。イコンとは、木板、象牙板、金属板などに描かれたり彫られたりしたキリスト、聖母、聖人などの画像である。イコンはビザンチン美術の中で大きな発展をしていくことになる。
イコン「ウラジーミルの聖母」12世紀末~13世紀
Tre Yakovskaja Galereya,Moscow
キリスト教は偶像崇拝を禁止していたため、絵画は描かれている世界の向こうにある「霊的なもの」に思いをはせて祈るためのひとつの手段であった。上記のイコンを見てもわかるように、三次元的な実体を持つ描き方ではなく、あえて平面的な描き方がなされている。また頭部と身体との比率も現実のものとは異なり、幼子イエスは大人のような顔をしている。これらを見ていると、造形美術は一時、衰退を余儀なくされたと言えなくはない。しかし、この現象の原因はあくまで作成上の制約であり、このことが制作者の創造性を奪ってしまったのでは「ない」ということが、時代が下ってもあらゆる事項で証明されていくのである。
11世紀になると、東方ではコムネノス朝が起こり、約100年間にわたり帝国が安定し、建築やモザイク、あるいは写本装飾、工芸品などが数多く作られていく。
マケドニアのネレジィ修道院聖堂の壁画「聖母の哀悼」1164年はこの時代に描かれたものであるが、これがいかに制作者の豊かな創造性を示しているものであるかは、後述の項目の中で記す。
4,初期中世美術
一般に「中世」と呼ばれる時代は、476年の西ローマ帝国の滅亡とともに始まる。
ヨーロッパにはゲルマン諸民族の国家が次々と興ってくる。
Ⅰ、メロヴィング朝
初期メロヴィング朝の時代は、フランスなどで、金工、宝石、エマーユ、象嵌などの工芸品が発達する。また各地で大小の僧院も建立された。メロヴィング朝の写本は、様式の点では古代の自然主義的表現とは明らかな対照をなしており、絵画芸術がエマーユや象嵌など貴金属工芸から多くの技術を学んでいたことを示している。
Ⅱ、カロリング朝
800年フランク王カルロス大帝が西ローマ皇帝に任命された。これでビザンチン帝国に対抗しうる一大帝国が、フランス、ドイツ、イタリアにわたって出現したことになる。彼は学問や芸術を奨励すると同時に、教会堂や修道院の建立に貢献した。その成果もあって、この時代には、ケルト=ゲルマンの土着的伝統、東方のキリスト教文化、古代ローマの古典主義の3者が混じり合った特異な折衷文化が花開く。
カロリング朝美術の特質を最もよく示しているのは、豪華な彩飾写本群であるが、特に注目したいのは、一次衰退した古典的なモチーフや人像表現を、キリスト教的な文脈のなかで復興させようとした努力のあとである。
当時、最も活発な制作活動をしていたのは、アーヘンの宮廷周辺の工房であるが、下記は、「アダ写本群」と呼ばれるものの一つの作品である。
「福音書記者聖マルコ像」アダの福音書 800年頃
Ⅲ、オットー朝
カルロス大帝の死後、帝国は北方や東方の蛮族の侵攻もありやや混乱するが、962年にザクセン長のドイツ王オットー1世がローマ皇帝の冠を受け、神聖ローマ帝国が成立する。10世紀後半から11世紀半ばにかけてのオットー朝の時代には、ドイツが西欧文化の主導的な立場にたっており、その積極的な推進者であった司教ベルンヴァルトは、ビザンチン建築の伝統をカルロス大帝の目指した古代復興運動と結びつけた。
下記の豪華な写本を見ても、その文化的傾向が見て取れる。
「ペテロの足を洗うキリスト」オットー3世の典礼用福音書 10世紀末ころ
5,ロマネスク美術
10世紀フランク王国が事実上の解体をみたことで、西欧の美術はまた新しい時代を迎える。
社会では封建制が安定し、人や物の交流が盛んになり、土地に根ざしたロマネスク文化が栄えた。この時代では、修道院が美術の中心であり、壁面に恵まれていたロマネスク教会堂の天井や側壁には、厳しいキリスト像、神々しい神母像、聖書や聖人伝を題材とする主題が、力強い筆致で描かれている。
東方的な色彩の強かったスペインでは、大胆な装飾性と強烈な色彩対比を特徴とするモサラベ美術の影響も加わり、独特のロマネスク美術が栄えた。
「栄光のキリスト」タウルのサン・クレメンテ教会 1123年
写本絵画もドイツ、スペイン、イギリス、フランスなどで数多く作成されている。
そこには優れたミニアチュールやイニシャル装飾も見られる。
「24人の長老」サン・スヴェールの黙示録 11世紀半ば
6,ゴシック美術
ゴシック美術は12世紀末~14世紀頃の美術をさすが、その性質はロマネスク美術と対照的であるといえる。
この時代の精神を最も端的に示しているのは建築である。あちこちで大聖堂が建てられ、天に届くような高い塔、ステンドグラスなど、神の館をできるだけ豪華に飾り、神の栄光をたたえる動きが盛んになる。装飾彫刻もこうした動きと連動し、装飾浮彫から等身大丸彫像へと移っていく。
盛期ゴシックの色彩芸術を代表しているのがステンドグラスである。大きな窓を細かく分割し、高窓に聖母や使途などの大型単身像、壁側窓に複雑な円形構図をそれぞれ配置するのが一般的なやり方であるが、これとは異なるやり方も数多く存在する。
ゴシックの浸透が遅れたイタリアでは、13世紀後半の絵画に新しい流れが現れてきた。
モザイク、フレスコ、板絵などを通してイタリアに根付いていたビザンチン様式の継承と脱却の試みである。それはまずローマのトリーティやカヴァルリーニ、さらにそのあとのチマブーエとその弟子のジョット、そしてドゥッチオやシモーネ・マルティーニらの活躍があり、それらにおいて段階的に成し遂げられた。
この流れはやがておとずれるルネサンスの礎を築くことになっていく。
★ジョットは、イタリアルネサンスに直接先行する絵画様式の確立者であり、作品における登場人物たちの人間味は如実に感じられる。
ジョット「ユダの接吻」1305年
★シエナ派のシモーネ・マルティーニは、アヴィニョンの教皇庁に招かれ、シエナ派の様式を北方に伝えた。それは国際ゴシック様式の源流となる。
シモーネ・マルティーニ「受胎告知」1333年
7,国際様式の時代
ゴシック後期、1400年ころを中心とした一世紀ほどの間に、ヨーロッパ各地で絵画を中心に共通してみられた優美な時代様式を指して国際ゴシックと呼ぶ。
14世紀に後半になると、絵画が芸術において主導的な役割を担うようになり、西欧各地の宮廷に「国際ゴシック様式」と呼ばれる共通の時代様式が展開される。
★ピサネッロは15世紀前半の北イタリアにおける国際ゴシック様式を代表する画家で、彼の作品には、幻想的でありながら実写をもとにした生気があふれている。
ピサネッロ「エステ家の姫君の肖像」1441年
もうここまでくれば芸術家の個性と創造性が大きく花開くルネサンス時代も目前に来ていることがうかがえる。
3、「テーマ別に」制作者の創造性を見ていこう
■中世美術における、聖書の内容の「表現の工夫」
中世における画家の使命は、聖書の一場面や聖人に関する出来事をとりあげて、キリスト教の教えを民衆に説くことであった。けれどもその作業を機械的に終わらせてしまえば、その効果が薄くなるのは当然のことである。たとえば「イエスが来られた」という場面を描くとしても、イエスの身体や顔の表情、また周囲の人物、そして遭遇している状況も、観る人に「わかりやすく」、「実感させるような」描き方をしなければ、目的の効果を強く発揮することはできない。そういう意味で、中世の画家たちも自らの創造性を発揮し、聖書の内容が生き生きと感じられるような「表現の工夫」に取り組んでいたのだ。
■中世美術における、聖書に記されていない場面の創造
画家は、大筋としては聖書に基づきながらも、聖書に記されていない場面をあらたに創造して描くことも少なくなかった。
このように中世美術においても、自律的な芸術の発展があり、人の気持ちに寄り添う感情の描写や心を揺さぶる表現を目指して、さまざまな「創造」活動がなされていたのである。
以下に、各項目における例を上げながら、上記のことを確かめてみよう。
1,ベドサダの地での治癒
たとえば、初期ロマネスク時代に制作された「エグベルトの写本」を見てみよう。イエスの一行と、繭(まゆ)のような寝床に横たわった人が問答をしている。繭形の寝床はビザンチン美術の中ではよく描かれるので、この絵はビザンチン写本の影響を受けているのだろう。病人は「わたしを池の中に入れてくれる人がいない」と言っているのであるが(ヨハネによる福音書より)、この絵においては、その病人の言葉が伝わってくるような、明瞭で具体的な描写がなされている。
エグベルトの写本 挿絵「ベドサダの池での治癒」980~993年
トゥリア市立美術館
また、このエピソードの後半を表す絵を見てみよう。マケドニアのスヴィーティ・ニキタ修道院の壁画に描かれているものだが、病人は床を背中に担いでいる。しかもただ立っているのではなく片足を軽く曲げていて、いかにも「歩き出した」ように見える。背景には五重の回廊で囲まれた池があり、水が波打つ様子が描かれている。
この絵からも、画家が実感のある表現を工夫したことが充分に想像できる。
マケドニア、スヴィーティ・ニキタ修道院の壁画「ベドサダの池での治癒」14世紀
2,キリストの埋葬
画家たちは聖書に書かれていない場面を新たに作り出すこともした。キリストが十字架上で亡くなった後の埋葬についてだが、聖書には、聖母マリアがイエスの埋葬において何か具体的な役割を果たした、ということは書かれていない。しかし、ビザンチン美術では、イエスの埋葬場面で、聖母マリアがイエスの上半身を抱え、そして墓に遺体を運び入れる直前には、マリアはイエスの顔に頬を寄せ、地に膝をつき、顔をゆがめて泣き出しているという激しい感情が表現されている。
弟子のヨハネは腰をかがめてイエスの手をとり、ほかの弟子たちもイエスの足を抱く。右の方からマグダラのマリアらしい女性が手を伸ばして走ってくる。空には小さな天使が泣きながら飛び、地面にはイエスの脇腹を突いた槍などの受難具が置かれている。
これらのどの表現を見ても、聖書の記述から離れて、創作されたものであることがわかる。息子に先立たれたマリアの悲しみが人々の心を打ち、そしてそれが祈りにつながることを画家は想像し、その思いがこの場面の創作に結びついたのであろう。
マケドニア、ネレジィ修道院聖堂 壁画「聖母の哀悼」1164年
このようにビザンチン美術において、「人を感動させる表現」は、ほかの作品にも影響を及ぼし、どんどんと広まっていく。
そして、それはイタリア半島にも伝わった。ジヨットはスクロヴェーニ家礼拝堂の壁画で、これと全く同じ場面を描いている。ジヨットがビザンチン帝国に行ったとは思えないが、おそらくビザンチンの写本を手本にしてこの場面を描いたのであろう。
ジヨット 「聖母の哀悼」1305年頃
パドヴァ、スクロヴェーニ家礼拝堂の壁画
これらの姿はルネサンス絵画に受け継がれていくばかりでなく、カラヴァッジョの「キリストの埋葬」の中にまで、その反映を見ることができる。
●これらは、弟子のヨハネやアリマタヤのヨセフ、マグダラのマリアなども共に描かれるなどして多人数の構図が組まれ、悲しみの雰囲気がさまざまに演出されるという表現方法がとられている。
●しかし一方では、物語的な要素が払拭され、周囲の人物が少なくなり、聖母マリアとイエスだけで構成された作品も出てきたのだった。
そしてそれは「ピエタ」と呼ばれるようになる。
ゴシック時代のドイツで制作された彩色木彫の作品を見てみよう。
座ったマリアがイエスを膝に抱く。イエスのやせこけた肉体の表現や、聖母の悲しみに満ちた表情などはもうサン・ピエトロ聖堂にあるミケランジェロの「ピエタ」が目の前に来ていることが想像できる。
木製の彫刻「ピエタ」1390年頃。フランクフルト、リービークハウス
ミケランジェロはもちろん天才的芸術家であった。しかし彼が弱冠24歳でこの作品を制作することができた理由は、彼の前に、ビザンチン美術からルネサンス美術へと連綿と続いてきた「聖母の哀悼」の厚い伝統があったからにほかならない。
彼は、マリアの苦悶の表情さえも極力抑え、わずかに持ち上げた左手に万感の思いを込めさせたようである。
ミケランジェロ「サン・ピエトロのピエタ」1499年
ヴァチカン、サン・ピエトロ聖堂
3、最後の審判
人間にとっての心配ごとの最たるものは、自分が死ねばどうなるのか、ということだ。これも新約聖書「黙示録」などの記述をもとに、「最後の審判がある」と考えられるようになった。死者も墓から呼び出され、イエス・キリストの前で審判を受け、悪い者は地獄に落とされ、良い者は天国に行き、「神の国」が達成される。この場面は聖書にも具体的に記されているわけではないから、どのように描くのかは、画家の想像力に委ねられなければならなかった。
ジョットの作品を見てみよう。この絵はかなりドラマチックに描かれていることがわかる。キリストは光の輪に包まれ、天使たちも数が多い。また右下の地獄を見ると、地獄の大王に食べられる者、木の枝からつるされる者、悪魔からさまざまな責め苦を受ける者など、具体的でおどろおどろしい地獄の様子が展開されている。
登場人物も極めて人間的で、それまでの絵画を越える感情表現がなされている。
このようにして、どんどんと画家の個性が発揮されていく地盤が確かなものになっていくのであった。
「最後の審判」ジョット 1300~05頃
フレスコ(約10メートル×8.4メートル)パドヴァ スクロヴェーニ礼拝堂
その後、フラ・アンジェリコもそしてミケランジェロも実感的な描写に腕を振るっていく。
ミケランジェロ「最後の審判」1534年
システィーナ礼拝堂側壁
4、聖母子像
聖母子像も聖書に「マリアは幼子イエスを抱いて座り~」などという記述があるわけではない。聖母子像は、いったいどのようにして成立したのだろうか。
絵画は礼拝のための図像であるわけだから、聖母子像も基本的に観る者の方を向き、観る者の祈りを受け取るように描かれている。
ここでもう一度、上述した「ウラジーミルの聖母」12世紀末~13世紀を見てみよう。
あくまで平面的な描かれ方をしており、幼子イエスは大人の顔をしている。頭部と身体の比率もおかしい、というようなことは前述した。
ただ注目すべき点は、マリアは幼子イエスを抱いているのに、母親らしい喜びの表情を浮かべてはおらず、憂鬱そうな顔をしているところだ。マリアはすでに我が子の将来の運命を予見し、憂いに沈んだ思いの中にいるのではないか。つまり画家はマリアの内面を忠実に描こうとしたことが想像される。頬をすりつける仕草はもちろん幼子イエスへの愛情表現ではあるが、ひいてはそれが「聖母の哀悼」に結びつけられるというストーリーも包含していると思われる。
そして時代は下って、同テーマ、14世紀ジョットの作品を見てみよう。
これは祭壇画であるが、聖母子は厳粛な雰囲気で、少し近づきがたいような威厳を持たせて描かれている。王座に聖母子が座り、周囲をたくさんの聖人や天使立ちが取り囲む構図が取られている。これは「マエスタ(荘厳の聖母)」といわれ、当時このような表現が流行した。
ジョット「マエスタ祭壇画」1310年ころ
フィレンツェ ウフィッツィ美術館
それからしばらく経つと、観る者は聖母子とさらに少し近い関係になりたいと望んだようだ。聖母子は王座には就いているが、その周囲をごく少人数の聖人たちが囲んで、あたかも静かに会話を交わしているようである。このような構図は「聖なる会話」と呼ばれる。
ドメニコ・ヴェネツィアーノ 1445年「聖なる会話」
フィレンツェ ウフィッツィ美術館
そして15世紀末から16世紀初めになると、聖母子は独立してもっと前に出て、介在する者もなく、観る者と間近に接するようになる。
フィリッポ・リッピの「聖母子と天使」を見てみよう。フィリッポ・リッピとはイタリア・ルンネサンス中期の画家であり、マザッチョの残した壁画を熱心に研究し、量感のある肉体や衣装の表現を学んだ人であったが、その聖母子と天使には人間らしさがありありと感じられる。
フィリッポ・リッピ「聖母子と天使」1465年ころ
フィレンツェ ウフィッツィ美術館
ラファエロは数々の聖母子像を描いた。その一つをあげておく。
ラファエロ「大公の聖母」1504年~05頃 フィレンツェ ピッティ美術館
このようにして見てくると、中世初期からビザンチン時代にかけて聖母子と観る者との距離がだんだんに縮まっていった過程を、イタリアでは中世後期からルネサンスの間に追体験したことがわかる。
しかし、フィリッポ・リッピの「聖母子と天使」も、ラファエロの「大公の聖母」も、伏し目がちの憂いを帯びた表情、または静かな複雑な内面を思わせる表情をしている。それらの原型は中世の時代において作られた「聖母マリア像」であることは確かであろう。また逆に、ルネサンスの多彩な創造性を持ってしても、聖母マリアのこの表情に置き換わるものは作り出せなかった、ということも言えるのではないかと思うのである。
4、まとめ
このあとヨーロッパの美術史は脈々と続いていき、かつてキリスト教の教義を説くために描かれたキリスト教絵画も、画家の内面を表現する手段としての絵画へと変遷していく。
けれども、それらは中世美術の中で育まれた創造性の延長であり、その発展形であるといえよう。
どのような時代背景的制約があろうと、制作者の芸術的な創造性や個性は決して葬られることなく、その多様性が活かされながら、美術の歴史が紡がれてきたということがわかったのであった。
【参考文献】
● 「中世ヨーロッパの美術」浅野和生 河出書房新社
●「ヨーロッパの中世」神崎忠昭 慶応義塾大学出版会
● 「西洋美術史ハンドブック」高階秀爾・三浦篤編 新書館
● 「西洋美術史」高階秀爾監修 美術出版社
● 「Pen BOOKS」キリスト教とは何かⅠ cccメディアハウス
●「Pen BOOKS」キリスト教とは何かⅡ cccメディアハウス
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