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福子(『ダイエット』について)


『大島弓子が選んだ大島弓子選集6』
大島弓子
メディアファクトリー

もう20年近く、定期的に何度も何度も何度も読んでいるのに、大島弓子の中でどうにもこの話だけあまり共感が出来なかった『ダイエット』。
やっと、やっと、わかってきた気がする。
どうしても、まだわかりやすい人物であるカズノコやカドマツを中心に据えて福子を眺める、という視点から脱することができなかったのだ。
あまりにさらりと描かれる福子のぎりぎりなはずの心を、絵柄に騙されて低く見積もって読んでいたのだ。「叙述のトリック」という言葉を思い出す。福子のぎりぎりを、大島弓子は過剰なくらいの軽やかさで描ききるものだから、推理小説でもないのに、騙されてきた。こんな壮絶な話だったのか。

同じく20年くらい前に同じ本を読んで、相方は即座に感動したと言い、わからない、という僕に「なんで? あたしたち両親なのよ、のところでジ~ンと来るやん」と説明してくれるのだが、何回読んでも、よくわからなかった。20年かけてやっと追いついた僕は、いったいどんなナマクラな感受性をしておるのか。

わからない、といいながら、わからないのが悔しくて、定期的に何度も読んできた。薄々、わからないのはこの話が凡作だからではなく、僕の理解が、なにかひとつ足りないのだ、ということはわかっていたのである。わかりたくて、20年読んできた。このわからず屋に、そこまで思わせるだけの力が大島弓子にはあるのだ。
やっぱり凄いと思う。

なぜ食べるのか、と自問して福子はこう答える。咀嚼すると記憶中枢を刺激して昔のことをどんどん思い出す。父が母を捨てた日、母が再婚した日、その他その他。まるで昨日の出来事のように磨き上げた記憶を、また丁寧に箱に入れて記憶の奥深くにしまい込む。それが終了する頃には食べ疲れて意識が朦朧としてニルヴァーナの世界に行けるのだ、と。

なぜ過去の辛い記憶を磨いて毎日更新しなければならないのか? 日々増え続ける記憶をすべて等価に磨き上げて保存することによって、個々の記憶の棘を抜くことを欲しているのだろうか。いや、「忘れない」という反抗によってしか争えないほどにまで、それらの記憶は福子を土台の部分から蝕んでいるのだろう。
カズノコがカドマツという男に恋していると知ったその記憶も、福子が「馬鈴薯」と呼ぶ記憶に、ひそかに数え上げられている。こういう小さなコマに、わかりにくいけれど、ヒントが仕組まれている。そしてそれがこの物語で、福子の「崩壊」のはじまりとして、よく読めば位置づけられている。ここを見逃すと、最後の「なったるでー」がまったくわからなくなるわけだ。うん、見逃していた。いや、見逃してはいなかったが、そこまで大きな意味をみつけていなかった。
「五歳児くらい その辺でウロウロしているの 福ちゃんて」
これを、文字通りの意味で読まなければならなかったのだ。

福子の飢餓状態を救う役割を負うカズノコを「思考がすっとぶがあったかい」の一言でしか説明していないのが難しいところだが、この物語でカズノコやカドマツまで複雑な人格を与えてしまったら、話が煩雑になりすぎると、思い切って省略された向きもあるのかもしれない。

・・・・・・

[ノート]

最初、福子がダイエットを決意した理由がよくわからないのだが、カズノコが「ダイエットしてみたら?」と薦めたあの一言を素直に受け取っての結果? カズノコがカドマツと出会ったことを「馬鈴薯」の一つに数え上げての暴食(軽いタッチで書かれているが、これはかなり悲痛な場面である)で、ニルヴァーナへ到達できなかったこと=福子の動揺の深さを物語っているのかも。カズノコを失うこと=もう一度家族を失うこと。だから福子はカドマツをも取り込んでの「家族」の再構築を願うのだろう。
カズノコが後半やっと悟るように、福子は「五歳児くらい そのへんでウロウロしてる」のだから、福子の言動をすべて統合されたものとして考えたら足を取られるのだけれど。
「ハートが飢餓状態」という言葉も、さらっと読み飛ばしてしまいがちだが、「愛情に飢えているの」程度の慣用句と「ハートが飢餓状態」までの間には、深い深い溝があるはずである。こんなちょっとした言葉遣いに込めたものを、ちゃんと読み取らなければならない。う~ん、流しては読めない人だなぁ、今さらながら。

(シミルボン 2016.9)

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