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種を蒔く


高校生のときに学校の図書委員をしていて、案外誰もなりたがる人がいないもんだから僕一人だけで、学校の図書室に思潮社版『寺山修司の戯曲』全巻や河出書房新社の『澁澤龍彦コレクション』全巻を購入リストに差し入れて実際に学校に買わせるなど、好き勝手していた。不良図書委員だなぁ。

寺山修司の戯曲   
寺山 修司
思潮社

『図書室便り』という定期的に出されるペラ冊子にも短文を書いたりもし、今思えば思い上がりも甚だしいが、なんか小林秀雄の文章の悪口を書いたりした記憶がある。
そんなもの誰も読んでいないようでいて、国語教師のホンダという女の先生が「話の内容はさておき」とした上で、「あなたの文章は句読点の間隔が長くて、文に妙なうねりがあって、なんか面白いのよね」とほめてくれた。
話の内容はさておき文体は面白い、なんて、なかなか高度な褒め方だと思う。
写真で例えるならば「写っているものに興味はないけれど、あなた不思議なトーンで撮るわね」みたいな感じか。実に高等な技である。

僕が文章を書くことを好きになるのは、実際、ホンダ先生にこんな褒められ方をした以降のことだった。
「文に妙なうねりがあって、なんか面白いのよね」
ダン・トレーシーのギターはヘッタクソだけど、なんでか良いよね、みたいな。
うまいとかじゃなくて「なんでか」良い。
数値化不能な部分をほめられると、実際に何かあるんじゃないか、みたいな勘違いに浸れる。こういう勘違いは、たしかに勘違いで終わることもあるけれど、勘違いから飛び火して別の導火線を動かすこともあるからバカにできない。

同じ学校の美術教師は、ドイ先生といったが、「絵としての整合性なんか考えるな、眼球と指先だけになって描け」と言った。僕は絵描きにはならなかったけれど、眼球と指先だけになれ、という教えは写真に置き換えても十分に通用する話である。要するによけいな美意識を捨てたところに降りてくる何かがある、ということだ。これまた実に高度な教えだと思う。
これが写真に置き換えても良い話だと気がついたのはずいぶん後になってからだが、それでもずいぶん前に蒔かれた種の痕跡を覚えていたのだから、その教師の種の蒔き方が上手かったのだ。

高校時代のこの国語教師と美術教師のせいで(おかげで)、僕はなんとなく勘違いな方向へ人生の舵を切り、勘違いな状態にも慣れた末に、中年になった今も書いたり撮ったりしているわけである。
僕は学校とか教師とかが基本大嫌いな人間だったけれど、思い起こせば、つまらない学校生活の中にも、たまには面白い先生がいたのだなぁ。

(シミルボン 2016.9)

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