金井くんの作文
老母の介護にまつわるエッセイだが、中途、脇道にそれた「金井くんの作文」の話が一番良かった。
小さい頃から読書家で(というより人付き合いが大嫌いで本に篭っていた)、本を読む=作文が書ける、学級内で作文を書かせたらいつも一等賞だった小学生の頃の平安寿子が、クラスの劣等生「金井くん」のまっすぐな作文に完敗するくだり。
いやぁ、名文であった。
これをまっすぐな日本語というのだ。
ネタバレしたら面白くないので書かないけれど。
いや、引用したくてうずうずしてるけど。
我慢します(読んでください)。
ううむ、何だろうな。
大したことが書かれているわけでもない。技巧が凝らされているわけでもない。
なのに50年前の小学校の教室で担任の教師を唸らせ、作文自慢だった平安寿子を唸らせ、そして50年後の平安寿子の読者をも唸らせる、たった二行の、劣等生金井くんが書いた文章。
平安寿子も書いている通り、これは日本語云々の話ではなく、「金井くん」のまっすぐさがなせることなのか?
いや、やはり「文章」の力なのだと思う。
文章の力というのは、理屈でもなく、技巧でもなく、そして素朴さとか真っ直ぐさとかいう書き手本人の性質・性格が反映されるから、というのも多分違う。
プロが書こうが素人が書こうが、悪逆無道のゲスが書こうが聖人君子が書こうが、良いものもあれば悪いものもあると思う。
良い文章というのは、理屈ではなく、そこに出現するのだ。
軽薄な感じで言っちゃうと、降臨するのだ。
小川洋子が「物語はあらかじめそこに埋まっている。作家はそれを掘り出していくのが仕事」みたいなことを何かに書いていたが、金井くんはそれを(そのときはたまたま「まっすぐ」という力で)掘り出してしまったのだ。
などと、色々文章の奇跡のような力について、考えさせられた一章だった。
あ、老母の介護エッセイとしての、この本の脇道以外の部分も素晴らしいです。
(シミルボン 2016.12)
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