贋作書いてみた
『夕べの雲』
庄野 潤三
出版社:講談社
読んだことなかったから買ってみた。
ある意味衝撃だった。何だろうか、これは。こういうものが「文芸」として成り立ってしまうのがびっくりだ。
日常の淡々とした家族生活の小さなさざなみを、だらだらと綴っていくだけで、しかもこれが新聞小説だったというからさらに驚く。
こんなに起伏のない話を、一切てらいのない文章で、ただただ書く。しかし、驚くべきことに、飽きない。なぜ飽きないのかもわからないのに、飽きない。むむむ、驚異だ。
どれくらい起伏のない話か、下手くそながらちょっと真似してみた。以下、贋作夕べの雲。
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急に肩が痛くなって、首が回らない。これが噂に聞く四十肩かと暗然と家に着くと、この時間、さすがに日向子と細君はもう寝ていて、台所に炊き込みご飯のラップしたものと根菜の味噌汁が置かれている。それと、冷蔵庫に昨日の残りのコロッケが一つ。
以前はコロッケにウスターソースをかけて食べるというようなことは嫌で、コロッケとは空堀商店街の某店のような本当に美味い店で揚げたてを買ったのを、そのまま歩きもって食べるのが極上、それ以外の食し方は必要ないのだと頑なに思っていた頃があったが、くだんの「ばらソース」に出会ってからというもの、コロッケはわざと中庸平凡な味のものを買ってきて、コロッケ自体の味というよりも、ばらソースを楽しむための添え物、みたいな扱いになっている。仮にうまいコロッケが食卓にあったとして、ばらソースをかけることでその味わいが増すか、もしくは損なわれるかが五分五分の場合の懊悩のストレスを考えれば、はじめから「別にうまくもない」コロッケを買って、ばらソースを楽しむことに専念した方が潔い、というのが、カマウチと細君の共通認識なのであった。
そういえば昨日も似たような話をしていて、カツカレーの魅力についての話なのであったが、カツカレーのカツは飛びきり美味い必要はなく、かけるカレーも別に平凡なものでかまわない、とカマウチが言うと、細君も「そこの○サヒのカレーでも十分ですわね(注 : うちの「細君」はこんな喋り方はしないが、まぁ、そこは多少の演出である)。美味しい○ングルのカレーにカツを入れたい、なんて人はいないでしょうし、逆に○兵衛のトンカツにカレーをかけたいなんて方もいないんじゃないかしら?」とすぐに同意したのである。
などという会話を思い出しながら、肩痛を気にしつつ、カマウチは炊き込みご飯を食べた。炊き込みご飯は好物であるし、味噌汁の具も根菜が好きなので(今日の味噌汁には牛蒡、大根、人参、椎茸が入っていた)気持ちよく晩飯はすすむのであるが、さて困ったのは冷蔵庫から出して今トースターで温めているコロッケである。
スーパーの総菜コーナーで買った、何の特徴もないコロッケであるから、いつもならば
「ばらソースを楽しむにはこのくらい没個性なコロッケでないといけないのだ」
と、わざわざ演説でも打ちながら嬉々としてばらソース・レストランウスターを冷蔵庫に取りに行くであろうカマウチなのだが、今日は炊き込みご飯に根菜の味噌汁なのである。
「これは困ったことになった」
いくらやわらかい味のばらソースとはいえ、他のウスターソースに比べれば、という話であって、炊き込みご飯の味を壊さぬほどにマイルドである、というわけではないのだ。
「しかし、ばらソースをかけなければ、このコロッケはただの平々凡々とした、じゃがいもの主張も聞こえなければかといって肉が歌うわけでもない、中庸といえば聞こえはよいが有り体に言えばどうでもいい味の、あまりにつまらないオカズでしかなくなるではないか」
ああ、今このトースターの中で熱せられつつあるコロッケが、かの空堀商店街○○肉店のコロッケであれば、このような懊悩はせずにすむものを、とカマウチは恨めしげに トースターを見、結果として「ばらソースを少量かける」という、実に気弱な決断に落ち着きそうな、自分の性格を呪うのであった。
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しまった。庄野潤三より面白いかも(笑)。
嘘、嘘。こんなので「庄野潤三の真似」なんて言ったらファンに殺されちゃう。すみません。冗談ですから。
とまぁ、ふざけて書いたのであまり伝わらないかもしれないが、こんな起伏のない、かわいらしいような小さな出来事の連なりが、延々と1冊続くのである。でもって、ちゃんと飽きずに読めるのである。不思議だ。
文芸って、まだまだ知らない世界がいろいろあるんですねぇ。
(シミルボン 2016.9)