
一分前まで猫だったもの
よしもとばなな『アルゼンチンババァ』読了。短いが端正で美しい小説。
『アルゼンチンババア』
よしもとばなな/奈良 美智
ロッキング・オン
いきなり冒頭の母の死のシーンで心わし掴み。
< お母さんの体からお母さんの魂がいなくなった時、私はその冷たい体を見て何回も思ったものだ。
「ああ、お母さんはこれに乗って旅をしていたんだ」>
僕は近しい人の死の瞬間に立ち会ったことがない。ここ数年で立て続けに祖父母を亡くしたが、その死の瞬間に居合わせたわけではない。日本語で「亡骸」とはよく言ったもので、通夜で対面した祖母も祖父も、彼らが乗っていた(よしもとばなな言うところの)「乗り物」は、すでに「カラ」だった。乗り捨てられたあとだった。

この写真は去年、僕がその死に立ち会った猫だ。
見たところ怪我らしい怪我もなく、きれいな毛並みのままビルの玄関に横たわっていたが、あきらかに目から輝きが失せかけていて、呼吸で上下する腹の動きがどんどん小さくなっていった。
生まれ変わりとか、来世とか、そういうことを僕は信じない。体が乗り物だとして、その乗り物を離れたら命は命でなくなるし、その猫はその猫でなくなる。その猫は終わる。
そう思いながらも、その猫の腹に手を当てて、か細くなっていく脈動がとうとうとぎれたとき、この猫は今、この体を離れてどこかへ行ったんだと思った。この体を乗り捨てて。
拍動が消えた途端に目の表面を覆っていた水分が途切れてだらしなく曇っていった。
(シミルボン 2016.10)