【21】目的達成のための覚書:天国をハックし、救済へのバックドアを通る(ダンテ『神曲』天国篇第20歌)

ダンテの『神曲』が面白いということについては、このノートでも繰り返し述べてきた通りです(たとえばこちらとか、こちらとかにおいて)。今回は少し別の内容、「天国をハックする」ことと「救済へのバックドア」についてです。


天国に行くには洗礼が大切です

ダンテは、13世紀末から14世紀を生きたイタリア・フィレンツェ出身の作家ですから、古典古代の作家、特にウェルギリウスに強い影響を受けているとはいえ、基本的な図式においてキリスト教徒です。『神曲』もまた、大いに古典古代の発想に影響を受けているとはいえ、経糸のひとつにはキリスト教があると言えるでしょう。

『神曲』において、あるいは大雑把に言ってキリスト教において、人の死後の運命を決める要素はいくつかあります。死んだ後に地獄に振り分けられて罰を与えられるか、煉獄に行って罪を清めるように仕向けられるか、あるいは天国に行くことになるかは、功績と罪とその度合によりますが、或る種規範的にその前段として機能しているのが、生前にキリスト教の洗礼を受けたか否か、という点です。ただ人格が良いとか、ただ優れた業績をなしたというだけでは、天国に上がるには不十分であり、ふつうは洗礼を受けていなければ、罪を犯していなくても地獄(の周辺)に置かれる。

そのため、キリストが登場する以前の世界に生まれた人間は、いかに良い者であっても天国には行かない、という主張が当時は通用していましたし、ダンテが『神曲』において提示する考えも同様のものでした。

では、洗礼を受けることのできなかった善い者たちがどこに行くのかと言えば、基本的には地獄の一部である「辺獄(limbo)」という場所に振り分けられます。
生まれて洗礼を受ける間もなく、また罪を犯す間もなく亡くなってしまう幼児たちもまた、辺獄に送られることになります。自分で罪を犯しているわけではないから清いではないか、と考えられるかもしれませんが、そうした子どもたちは天国に昇ることはありません。清めるべき罪がないので煉獄に行くこともありえません。何の罪を犯していないとしても、辺獄に放り込まれるのです。

このように、洗礼を生前に受けているか否かは、人の死後の運命、人の死後の場所を決めるにあたってきわめて重要な意味を持っている、とされていました。

洗礼なしに天国へ行くこと:救済へのバックドア

しかし実のところ、いくつかの例外があります。
つまり生前に洗礼を受けているわけではないのに、天国へと振り分けられるという例があります。
もちろん天国篇の最後のほう(第32歌)に出てくる人祖アダムやモーゼ、マリアやアンナといった例もありますが、これらは救済史上非常に際立った例外としてさしあたり除外することにしましょう。

寧ろみてみたいのは、天国篇第20歌に出てくる2人の人間です。一方は、ローマの五賢帝の一人に数えられるトラヤヌスです。他方は、ウェルギリウス『アエネーイス』に登場するトロアのリーペウスです。ふたりは生前に洗礼を受けているわけではありませんが、例外的に天国に座を占めています。つまり、どこかしらで抜け道・裏技を使って天国にいるのです。

ダンテはこの2人が天国にいるのを見て、「これはいったいどういうことでしょうか」と問います(82行)。
トラヤヌスはキリスト教徒を迫害した異教徒ですし、リーペウスに至ってはキリストが生まれるよりもずっと前の、それゆえ洗礼というものが成立するよりも前の人間です。そんな2人がどうして、洗礼を必須条件とするはずの天国に位置を占めうるのか。ダンテはこうした疑問を持ったのです。

正義の象徴である鷲の形象からの答えにはやや謎めいた面があるので、ここでは要約しつつ説明することが許されるでしょう。

トラヤヌスは一度地獄に行きます。というのは、トラヤヌスが活動したのはキリストの死よりも後のことであり、以って生前に洗礼を受ける余地があり、生前にキリストの信仰を受け入れる余地があったにも拘らず、信仰を受け入れなかったからです。(また既に述べた通り、トラヤヌスはキリスト教をいっとき迫害しています。)
しかし、彼は徳が高いことで知られていました。その点は煉獄篇第10歌にも描かれている通りで、この点を例証するエピソードとして、息子を亡くした寡婦のために息子の敵討ちをお行った、ということがあります。
教皇グレゴリウス1世は、このトラヤヌス帝のエピソードに感嘆し、トラヤヌスのために祈り、彼を地獄から一時的に呼び戻します。つまり一時的に復活させます。そのうえで、彼に洗礼を施すのです(もちろんこれは聖人伝におけるある種の創作ですが、話はそうなっているということです)。こうして洗礼を施されたトラヤヌスは再び死に、彼の魂は今度は天国へのぼります。

もうひとり、存命中に洗礼を受けなかったにも拘らず天国に挙げられているのは、既に述べた通り、ウェルギリウス『アエネーイス』に僅かに現れている、トロヤのリーペウスです。
リーペウスの場合には、トラヤヌスのように復活して洗礼を受けるということはありませんでした。しかし、そもそも洗礼の儀式というものが定められるよりずっと前に、3つの対神徳(すなわち信仰、希望、愛徳)を象徴するところの3人の貴婦人によって、事実上の洗礼を受け、天国へと迎えられたのだとされます。

以上で駆け足に確認してきたのは、天国に行く・霊魂の救済を得る、という極限的なことにおいて、洗礼が絶対的な条件として君臨するように見えるとはいっても、例外的な方法で天国へと行き、救済にあずかる可能性が残されているということです。
不正確な言い方であることを承知のうえで言ってみれば、天国にはセキュリティの穴があり、つまり救済へのバックドアが残されているということです。もちろん天国は天国で、侵入をもちろん歓迎しますから、あくまでも比喩として理解してください。ともあれ、洗礼という常道を通らない者のための、(不正な、少なくとも正規のものではない)侵入経路が残されているということです。常道に従わずとも、大雑把に言って有徳であることで、天国をハックする可能性があるのです

正規でない道を行き、地上の目的へのバックドアを通る

我々が気ままに、あるいは恣意的にダンテの記述を見るのであれば、天国においてすら救済へのバックドアが用意されているという事態は、或る種の勇気を与えてくれるのかもしれません。
神が司るとされる天国においてすらセキュリティの穴があり、救済へのバックドアが用意されているのであれば、況や人間社会においてをや。況や世俗的・物理的目標においてをや。ハッキングは簡単であるように思われます。
言い換えるなら、今生活しているこの世界において、たとえ自分が常道から外れてしまっているように見えても、実は標的へのアクセスの経路は他にも何本もあるのではないでしょうか、ということです。

多くの場合私たちの目には、成功のレールというものが映っていることでしょう。変化の激しい今の世の中にあってなお、いい大学に行き、いい企業に勤める、あるいは公務員や官僚になるといったルートは、極めて魅力的なものとして多くの人の目に映っているのかもしれません。他にも色々なルート、王道というものがあることでしょう。
しかし、そうした王道から、私たちは何かの拍子にはずれてしまうことがある。それは仕方のないことです。もちろん、怠惰によってはずれることもあれば、経済的状態によってはずれることもありますし、そもそも最初からそうした王道・正道のようなものに乗ることのできなかった人も、もちろんいます。
そうした場合には、正道に戻るということももちろん可能かもしれませんし、個々人の望みに応じてその可能性も十分に探るベきでしょう。(キリスト教で言えば、罪を犯した場合に悔い改めて悔悛の秘跡を受ける、つまり大雑把に言えば自らの罪を司祭に告白して赦しを得ることが、常道への復帰にあたるでしょう。)
しかし、同時に考えた方が良いと思われるのは、そうした正道、あるいは陳腐な言い方をするのであれば、社会や周囲の人間が敷いたレールから外れてしまっても、変わらずそこかしこにバックドアが開かれており、また先人がかき分けてきた(不正かもしれない)アクセスの経路が残されていることが確認されるのではないかということです。正道から逸れてしまって、復帰するのがもはや難しい場合には、敷かれていたレールを、正規のルートを必要以上に懐かしむことなく、思い切って斬新な経路で対象に漸近し、バックドアをこじ開ける覚悟というものが、重要になるのではないでしょうか。そうせざるをなえいからには、なおさら覚悟が必要になるのです。(こんな方策は、キリスト教的救済を目指すという観点からは推奨されませんが、私は目下、現世における目的に関して話をしたいのです。)

言うまでもないことですが、
王道を歩むということは、多くの場合、目的ではなく手段です。
道は道であって、目的地に至るのが目的です。道は目的ではありません。

人生の王道・正道・常道がなぜ王道・正道・常道かと言えば、それは道行きが楽しくそれ自体が目的になるからではないでしょう。寧ろ道が比較的広く歩みやすく、行き着く先に輝く光り輝く何かがあるからこそ、王道は王道たりうるのです。つまり、比較的高い確度で、良い目的に辿り着くことができるのが、正道です。
さて、その目的がさしあたって万人に共有されていると考えてみましょう。幸せだとか、安心だとか、然るべく尊重されるとか、何でもよいと思います(誰しもが求めそうなものをあげてみました)。
こうした目的地に辿り着くことができるとすれば、結局のところ道行きはどうでもよいということになる。どうでもよい、というのが言い過ぎであれば、各人が各人の条件にあわせて異なる道を採用してよく(あるいは採用せざるをえず)、その結果として、同じ目的に至るかもしれない、しかし異なる扉を開いてよいのです。

もちろん、最初から最後まで王道に従うことができれば、楽なはずです。既に成立した道を歩んで、その先の扉を開くのは、比較的易しいのかもしれません。王道が王道たる所以です。
しかし、王道が肌に合わないとか、どうしても王道を歩み切ることができなかった場合であっても、他の道は探しうるのかもしれない(戦いから降りる必要はない)。
それは曲がりくねった獣道かもしれないけれど、ひょっとしたらあなたにはそちらの方があっているかもしれない。人でごった返す参道を歩むよりも、岩肌を勢いよく駆けてゆくほうがあなたには向いているかもしれない。その中で、戻れる・戻りたいなら一時的に常道に戻ってもいい(し、そのまま再度常道を歩みきってもいい)。また外れてもいい。
何にせよ、同じ目的に辿り着くためのアクセスの手段は常に複数あるように思われ、王道の先にある目立った正規のアクセス経路の他にも、目的地にはきっとバックドアがある。バックドアは万人にとり見つけやすいものではないかもしれないけれど、あなたの目にははっきり見えるかもしれない。ごく小さいかもしれないけれど、あなたの体にはピッタリのかたちかもしれない。つまり私たちにも、私たちなりのバックドアを突く可能性は常にある。それはあたかも、天国のセキュリティホール、救済へのバックドアを、生前の洗礼という常道を外れたトラヤヌスとリーペウスが突いたように、です。

(もちろん、そうして他の道をとったときには、同じ目的地に辿り着くのだとしても、景色は当初の予想とは大きく様相を違えていることでしょう。つまり官僚が生活において感じる安心と、経営者が生活において掴み取る安心は、同じ安心であっても、幾分異なるはずですし、官僚の間でも、経営者の間でも、異なるでしょう。同じビジョンに辿りつかないということは、そもそも厳密に言えば同じではなかった、ということを意味するとも言えるはずです。この点はこの点で重要ですが、さしあたり触れないことにしましょう。)

もちろん、強いて正道を逸れよといいたいわけではありません。正道には正道たるゆえんがあり、この点については既に述べてきた通りです。しかし王道から逸れてしまった場合、逸れたいと思ってしまった場合、そうした場合には、普通想定されていない方法でアクセスし、バックドアを見つけて侵入することを考えて、実践してみてもよいのではないでしょうか。
なにせ、天国にさえハックする余地があり、救済にもバックドアがあるのですから、現世の細々とした目的にも当然バックドアがあり、辿り着くための様々なアクセスの経路がある。——そういった論理を持ってみてもよいのではないでしょうか。