【135】厭世思想家・マインレンダーの賭け:嘘から真を出せるのか
ごくわずかな人に向けられた記述です。前向きなことばしか見たくない人は即座に閉じてください。前向きな言葉を読んでいて腹が立つ人とか、疑問を覚える人には読んでほしいと思いますが、そうした人にもひょっとしたら笑われるかもしれません。それならそれでよいのですが。……
■
先日、ドイツに留学している友人とテレビ通話をしたのですが、その際に面白そうな作家の名前を聞きました。
フィリップ・マインレンダーというその作家は、独特の厭世的な思考を2巻1300ページからなる『救済の哲学』にまとめたのち、35歳で自殺しました。
少し読んでみても、また当時の書評を見ても、哲学的には極めて杜撰で、全く厳密ではありませんが、カント哲学の、またショーペンハウアーの影響のもとに生じつづけていた厭世思想のひとつの俗っぽい受容のありかたとして、思想史の一幕を形づくっており、その点からすれば読んで面白いものでしょう。
■
友人からの聞きかじりの要素が強いので、あまり深く参考にされても困りますが、
マインレンダーは自身の厭世的な精神に耐えられず、あるとき、とにもかくにも身を捧げられるものをと探し求めて、軍に志願し入隊します。
これがどういった心理にもとづくかはわかりませんし、推測するほかない面が強いでしょう。
しかし、何か自分を捧げられるものを見つけようとした、精神が負の方向に進むのを食い止めるために、軍という外在的対象に自らの身を委ねてみた、ということは確かでしょう。マインレンダーの意図を確認することはできませんが、ひょっとしたら、死に魅入られているという真実から目をそらし、軍務に(あるいは何かに)熱烈に従事したいという嘘の気持ちを本当にしたかったのかもしれません。嘘から真を出したかったのかもしれない、ということです。
■
この種の嘘が本当になるという保証は、全くありません。
なるかもしれないし、ならないかもしれない。
なる可能性があるとしても、そんなことをやすやすと保証する人は、たいてい既に「成功」している人で、つまるところ生存バイアスにとらわれています。避けがたくポジショントークだということです。
心理学の成果なんて持ち出されても、全く意味がない。「楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しくなるのだ」とか、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」とかいう言葉は、はっきり申し上げて、実に空虚です。空虚すぎて笑えるくらいには空虚です。
実験室でのことを、あるいは関係ない第三者の実例を、ほかならぬ私の、あなたの人生に即座に応用できると思うほうがおかしいのかもしれません。決定的な断絶がある。その断絶に思いをいたすことのできない人間のほうがどうかしている、とさえ思われるかもしれません。
「楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しくなるのだ(だから笑え)」というのは、心地よいお題目かもしれせまんし、人生上手くいっている人が、上手くいっていない人に発破をかけたり、殴ったりするための武器としては、とても使い勝手がよいものでしょう。
そんなお題目を受け入れて「じゃあ、とりあえず笑って過ごそう」という気持ちになれるような(良くも悪くも)単純さを極めた人間は、はじめからアドヴァイスなど求めはしないのではないでしょうか。
そうした人びとはそもそも人生うまくいっている、というか、「自分の人生は笑って過ごすに値する立派なものだ」という根拠のない自信がある。自信というものは、根拠があるとすれば単なる推論とその帰結ですから、根拠がない自信というのは真正の自信です。
であれば、根本的に自信がない、というよりほかならぬ自分が自信を持つという作業のほうを滑稽に思っている人は、いったいどうすればよいのでしょうか? おとなしく死ねばよいのでしょうか?
■
「楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しくなるのだ(だから笑え)」というお題目に(いたって正当な)反感を覚える人であっても、即座に生を儚んで死ぬということは稀です。
自殺が痛そうだからかもしれませんし、あるいはわずかばかりの未練というものがあるからかもしれません。いずれにしても、存在しているからには避けがたくほんのわずかの自己愛があって、何かがあなたの生命をここに引きとどめている。
これは「自信」ではないけれども、やはり絶望しきっていないからこそとどまっていて、こうしてとどまっていることではじめて、無邪気に生きているように見える、「ポジティヴな」言説を振りだす人に対する反感が可能になっているようにも思われるのです。
さらに言えば、きっと何らかのかたちで、自分が置かれている状況には不満がある。積極的な「今に見とれや」という根性ではないかもしれないけれど、少なくとも不当だ、という気持ちがある。ということは、即座に生きることとへの意志が論証されるわけではないけれども、何らか生へのしがらみがある。だからこその反感である、とも思われるというわけです。
その反感は、不満は、大切にしていただきたい。というより、そういった気持ちにきちんと燃料を与え続けなければ、いっそう辛いことになるかもしれませんし、何より、ひとたび胚胎された思惟を養わないのは、犯罪と言ってよいでしょう。
そうして反感を持ちつづけることが何につながるのかはわかりません。しかし、忘れないでいただきたい。それが誠実というものだからです。
■
個人的な信念を言えば、正しく絶望すること、誠実に絶望するためにこそ、敢えて笑うプロセスを経ていただきたいと思うのです。
笑いつづけて本当に楽しくなって、そうしてあなたが絶望や否定性を正しく忘れ去ることができれば、それはそれでよい。別にあなたが不実であったということにはならない。責める人は誰もいないでしょう。余計なブレーキをきちんと外して、アクセルだけ踏んで進むことができたのなら、それでよい。誰も困りません。
しかし仮に笑いつづけ、社会的成功や物質的成功を得るために努力し、実際に獲得して、それでもなお精神的な充足がない、あるいは精神が全く動かされないとすれば、それはひとつの不幸かもしれないけれど、あなたの絶望が本当に真摯なものであったことが、あなたがどこまでも誠実であったことが、そのときたしかに証明されるのです。
そうした真摯さはきっと、全く肯定的に評価されるものでもなければ、歴史に名を残す理由にもならないでしょう。ただ一筋の稲妻のように暗い空に掃いて消える、そうした誠実です。それでもいいなら、それは人知れず尊いものです。
■
どちらにせよ、やる価値はあります。
だからこそ、「嘘が真実になるか」は、一度か二度は、数年がけで、本気で、やってみていただきたいのです。特に今死ねないのであれば、マインレンダーのようにやってみてもよいのではないかということです。結局は死ぬのかもしれません。それでもやる価値はあるということです。
そんな(絶望的な)賭けに耐えられないのなら、自分が「ただ見て過ぎよ」と言われる、中途半端な・一顧だに値しない存在であることをはっきり知って、地獄の中を普通に生きていくほかないのです。
■
私があえてネガティヴなことを書きまくるのは、ネガティヴな人にこそ深く共感しているからです。
金儲けのためなら、あるいは人間関係を広げて楽しく生きていくだけなら、ポジティブなことばかり言っている方が良いに決まっているのです。ポジティブな人の方が普通は社会的に成功しやすいから金を持っていますし、金払いもいい。関わっていても概ね気楽です。
ネガティヴな人は懐疑的で、騙しにくい。つまり、こと精神に関わる領域では、金を払いにくい。ネガティヴな人とばかり話していると、自分の気持ちは当然沈みますし、論理的に議論を深められることはあるけれども、陳腐な言説を反復する甘い甘い罠に入り込んでしまうことがある。
嘘をついて、というかポジティブなふりをして、ヤヌスのごとく背面にある顔から発せられる言葉だけを見せていくことは、当然、できます。
しかし、そんなことをしたくはない。
■
ヤヌスはヤヌスであるからには、確かに持っているふたつの顔を、ブレーキとアクセルのように背反しあうふたつの顔を見せつづけることが、何よりも私の誠実であり、私のためらいがちな賭けです。
地獄を覗き込もうとする・覗き込まねばならぬと思う顔がある一方で、はるか天上の星をめがけて飛んでゆきたい顔がある。そうした人間はきっと私だけではないにせよ、この両面をともに見据えてものを書きつづける(書きつづけている)人は、きっと少ない。だからこそ、私は「試しに」そうしてみたいのです。
人と神の境界において石としてかためられたニオベーのように、というと気取りが過ぎるかもしれませんが、或る種の標識として、実践的に、境界に立っていたいのですし、こうした気持ちが失われるとしてもそれは不実ではないと思いますが、少なくとも今はこうした気持ちにとどまりたいものです。