【151】だから私はだめだった!

だから私はだめだった!と言える理由はいくつもありますが、わりとありがち(であるように思われる)ものについて。

あくまでも私のためのものだと思っていただければよいのでしょう。


同じことの反復を嫌うから、だめだった!

勉強でも何でもいいのですが、大切なことの数はそれほど多くはなく、しかし一発で腑に落ちるということはなかなかないから、同じことを様々な仕方で、あるいは時をおいて語り直して、語り直されたことを取り入れつづけるということになるのです。

同じことを一つの仕方だけで言わないのは何故かと言えば、一つの仕方で言ったってそれがきちんと腑に落ちる人はごくわずかだからです。

様々な仕方で様々な角度から学ばなければ、重要なことというのは身につかないものです。同じ物があったって、人によって見えかたは変わるわけですから、表現の角度というものは変わるわけですし、そうして様々に異なる表現を学ぶ中でこそ、自分にしっくりくる表現を手にすることができるわけです。

ある表現はいっさい心に響かないかもしれない。また別の表現はぐさりと刺さるかもしれない。だから同じことを学ぶにしたって、さまざまな経路で学ぶ必要がある。

「時間は大切だから無駄にしないようにしましょう」なんていうことは誰だってわかっていることですが、そのまま言われたって、「うんそうだよね」「何当然のこと言ってるの?」ということになる。そして、結局のところ「時間は大切だよね」という主張に還元できるような教えを目にした時にも、「なんだ、これはよくあることを言っているだけじゃないか」と言い張りたがる人もある。

それではだめなのです。大切なことであればあるほど定着させることは困難で、定着させるには、様々な角度から、手を変え品を変え学びつづけることが必要になるのです。

言い換えれば、主張本体のあたらしさは問題にならないのです。

寧ろ時間を大切にできていないからこそ、そうした「同じような」文言に繰り返し出会っているのでしょう。「これは他の場所でもよく言われているありふれた言葉だ」などという愚かしい批判を振り出しているということ自体が、同じことを繰り返し繰り返し別の仕方で語らねばならないことならない理由の一端を明かしているというわけです。つまり、同じこと——あるいはかなりの程度似通っていること——を様々な仕方で学んだ結果として、まだしっくりくる表現を見つけた経験がない。だから学びつづけていて、しかし半ばヤケになっている。

外国語の単語や表現だって、多様な文脈で出てくるのに触れなければ、その意味や使われ方を自分のものとすることはできません。何回も同じ単語に出会い、何回も辞書を引いて、文で出てきた意味を探すだけでなく、ざっと語義と例文を通覧して、その使われ方や意味の広がりというものを一定程度抑える作業を繰り返す必要があります。あるいは見るだけではなくて、書き取ったり、音読したりといったプロセスを通じて学ぶほうが歩留まりはよいでしょう。

数学だって、私は高校の範囲のことしか話せませんが、ごく少数の基本的なことがらの定義を全部身につけて、記号や表現を適切に使えれば、大学入試の問題は全て満点をとれるはずなのです。しかし実際にはそうではないわけです。繰り返し繰り返し様々な問題を解いたり、様々な解説を通して徐々に少数の原理に関する理解を深めていかなくてはならないのです。

そんなことは明らかであるのに、こと人生というレベルになると、人は本当に反復ということを嫌う。「そんなことはわかってるよ」と笑いたがる。同じ(ように見える)ことを学び直すのに金も時間もかけない。身につけられていないというのに。「だからだめ」なのです。


もう一つ、「だからだめ」な例を挙げるのであれば、理想やフィクションを現実の上に据えないからだめなのです。

理想を目指して現実を変革するのではなくて、現実に合わせて理想を格下げするからだめなのです。現実のあなたがだめだめなのか、とても優れているのかは知りませんが、理想に比べればだめだめでなくてはならないのでしょうし、そうでなければ理想というものの価値はありません。そうした理想を立てる必要があるということです。

というのに、理想のほうを格下げするか、持たずにいるのが、そうして斜に構えているのが、(カギカッコ付きの)「現実主義」であり優れた態度であるかのように信じ込む、愚かな——愚かです!——人の何と多いことでしょうか。

フィクションを立てる能力があるというのにそれを行使しないというのは実によろしくない。それは現実主義でも何でもなく、単に(ときに唾棄すべき、せいぜい「まあまあ」な)現実を追認しているに過ぎません。肯定的な意味での現実主義とは、理想のみに埋没せずに、現実を見据えて理想への歩みを進めるということです。南原繁でも丸山真男でも読んでください。


この状態は逆に、もう一つの事態を照らし返します。それは、フィクションを現実に活かす、などという観点をまったく疑わないのは、あるいはそうした言い方を一度も顧みないのは愚かだ、ということです。

フィクションを現実に活かすというのは、せいぜい永遠の弥縫策です。つまり私たちが避けがたく現実に縛られているからそれを改善していくほかない、というある種の諦めを掃いたような態度です。

それ自体は一応問題のないものといえますが、フィクションを現実に行かして我々が何を目指すべきかといえば、当然のように不可能なフィクションの世界であり、あるいはあたう限り理想に近い世界です。

現実というものはあくまでも現状であり、避け難く我々が縛られた地点に過ぎないのですから、フィクションを現実に活かすという発想そのものが、転倒しているのです。

この転倒がどうして危険であるかと言えば、「現実」を改善させるのにフィクションを活かすのではなく、「現実」を追認するためにフィクションを引用する人、あるいは無意識にそうしてしまう人がいるからです。

フィクションを現実に活かすということが正しく言われうるとすれば、それは当のフィクションを(不可能ながらも)実現させようとするという意味においてであり、現実ないし現状はせいぜい考慮される一個の要素にすぎない。

究極的には理想を生きるべきであって、それが不可能だから現実を改善するという方途をとらざるをえない、というのが「フィクションを現実に活かす」ことの最低限の了解であって、これは現実にフィクションを服従させる態度や、現実を目的論的な出発点に据える態度と混同されてはならない。

そんなこともわからないから、だめなのです。


ふたつの、全く違うことを言いました。

ある事柄に対して有効な構造を他のことに応用する能力を根本的に欠いているからだめだ、ということを述べました。

目の前の現実(に対して無意識に当てはめているフィクション)の方を、理想を描くための言語に対して服従させがちだからだめだ、と述べました。

いずれにしても、人間は自らだめになってゆくような傾向性を持っているのであり、これはそこそこ逃れ難いものです。

だからこそ、こうして言語で防波堤を立てておかなければならないわけです。何度も何度も、そうした自分が愚かであるということを思い出させる言葉を明確にかたちにしておかなくてはならない、というわけです。

翻って皆さんは、どうしてだめなのでしょうか(いえ、だめでないのならばどうでもよいのです、そのまま頑張ってください)。自分にだめだというところがあるのなら、少なくともひとつひとつ言語化して、その理由を潰していくことができそうなものです。