弥生三月さよならの月
「過ぎ去って ゆく者として抱かれおり 弥生三月 さよならの月」。かつて一世を風靡した俵万智さんの『サラダ記念日』にあった一句だ。わたしは妙にこの句だけ記憶に残っていて、毎年3月になるとずっと胸のなかにこの句の風が吹いている。
初めて読んだときは中学生か高校にあがったばかりの頃だったので、この歌集が全体に及ばせていた大人の妖しい恋愛の気配などわかるはずもなかった。今改めて大人になってこの句に対峙すると、喉元に向けて苦い潮が迫りくるような思いがする。
何度も別離の予感を孕みながら、あるいは別離を前提にしながら、そうした情景を味わってきた気がする。男の狡さすら、侮蔑しながらもどうしようもなく執着していた気がする。
けれど不思議なことに、この句から真っ先に連想するのは沈丁花のすがしい芳香なのだ。そのせいか、「過ぎ去っていく者」は明日を見ているのがわかる。終わった関係の抜け殻を、今はどうしようもなく執着しながらも、この関係の終焉に立ち会い、諦めと「存分に愛した」というやるだけやったという感を思わなくもない。
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