世界のつくり方
あまりにも薦める知人が多いので「007 No Time To Die」を観てきた。改めて感じたのだが、人が人生に求めるものって好きな映画のタイプに現れるのかも…ということ。良くできた映像作品でエンタメコンテンツとしてもちろん申し分なく、でも今現在のリアルな自分としては「わかりやすすぎて物足りない」という感想の方が大きかった。えー、いつからそんなひねくれた?と思わなくもない。ちなみに子どもの頃は父親と一緒になって、ショーン・コネリーやピアース・ブロスナン版のそれをむしろ好んで観ていたのだが。
それでちょっと考えた。物足りなく感じたのはなにか。
なお、冒頭にたまたま映画タイトルを出してはいるが、それについての考察ではないです。契機にしてわかったことをつらつらと書く。
何もかも作品中で説明されてしまうと、こちらに類推の余地がなく、自分の中が刺激されないのだ。「自分の中の刺激」、これが活発に起きているとき脳内と胸のあたりが小さくスパークする感覚を覚える。「これってこういうこと?」とか「ああ、こんな視点があるのか」など、ひと言でいえば内省に近いのかもしれない。それが、映像作品を見進める過程でどんどん起きていく。あるいは、鑑賞後に数時間、あるいは数日たってひとつの思考として出現したりする。これが醍醐味ともいえる。
書いていてなんて面倒な映画鑑賞スタイルのやつなんだ!と思うが、今時、すぐにネット配信されモバイル程度の小さな画面で消費されつくすコンテンツ時代に、あえてわざわざまあまあお金を出して時間もそこに合わせて、大画面で観ようという場合、やはり特別な鑑賞という体験から何かを得たいからなのだ。私の場合は。
大画面の迫力は簡単に疑似体験に合う。007も、選びに選んだ世界中の明媚な景色を流線形の官能的で美しい英国車が駆けるさまなど、単純にトラベルムービー的に触発される。アトラクション感覚だ。スッキリ気分爽快!
かと思えば、自分はバーブラ・ストライサンドとロバート・レッドフォードによる「追憶」が生涯ナンバー1ムービーと決めているのだが、これだって充分わかりやすい。わかりやすさの種類が違うだけだ。そして不思議なことに、おそらくこれがリアルタイムで鑑賞していたらまた違ったと思う。こちら1973年の作品という、自分も生まれる前の時代の、自分が強く憧憬をもつ時代のカルチャーを描いていることが、このラブ・ストーリーへの感想に大きく影響していることはたしかだ。あと、おそらくは主人公にどれだけ自己投影できるか?というのもどんな映画が好きかという点に影響しそう。高倉健を観て劇場から出たら、皆高倉健、というのと似ている。
そういう意味ではジェームズ・ボンドなど一定の男性からしたら理想的なんだろうな。ちなみに「追憶」のなかでバーブラが演じるヒロイン・ケイティは相当にイタイところがある女性だが、私などかなり共感する。似ているとはあえて言いたくない。かと思えば、「追憶」と双璧の「男と女」の、アヌーク・エーメなどは真の理想像でありながら、現実にはどうにも真似ることができないのに憧れは募るばかり。
「男と女」は1966年公開のフランス映画だが、初見は20代であったが映像の光と影の美しさにノックアウトされた。ストーリー、登場人物、役者のすべてが自分好みであるが、もっとも刺激を受けたのは映像世界だったと思う。あの頃は努力やがんばりによって、いつかアヌーク・エーメになれるかも♥なんてぼやけたことを夢想していたが、資質というものが重要であることを今は理解した…。
「007 No Time To Die」を鑑賞して一晩たった自分が今強烈に感じていることは、憧れのアトランティック・オーシャン・ロードをあんなふうに駆け抜けてみたい!というものだった。しかも叶うならば、荒れに荒れた悪天候のときに…!(参考:http://travelpress.jp/the-atlantic-road/)たぶんそこじゃない、と推薦してくれた知人らはいうことだろう。
それにしても、このところ結構劇場で映画を鑑賞しているが、それは自分が何かの答え、手ごたえを渇望するあまり、映像世界の疑似体験から何かを得ようとしているからだとわかっている。そう、インプットの季節なんでしょうね。