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後編:「ホブソンズ紀行」おばの遺したもの

 おばの話に触れるとこのあとのことを書かざるを得ない…。おばと最後に話したのは、大学卒業の年の3月だ。このあと彼女はなんと行方不明になり、捜索願いを父が出して7年ほど経ったある日のこと、警察だったか弁護士だったかが「父の名で葬儀が終わっていた」と連絡してきた。むろん、謎の第三者が父の名を騙って勝手に荼毘に付されていたということ…。その時に判明したのは、先祖代々の墓地もおばの住まいも遺産も、すべて見知らぬ他人のものになっていたということだった。墓所だけ取返すことができたけれど、おばの骨すら本当にあのお墓に入っているのかも調べようがない。この辺の詳細を書くといろいろ面倒が起きそうなので割愛する。

 いずれにせよ、そんなふうにして憧れのあの人は突然私の前から消えた。

 パリ留学時代に彼女を写したポートレートをたくさん見せてもらったことがある。モデルのように美しく、私はとても驚いた。「このお写真、欲しいです!」映画スターのポスターのようなそれらを目をハートにして言うと、珍しくおばはうれしそうに笑って、「そうね。いつか私が死んだときにはあなたにあげましょう」と言った。それらも、もちろんどこにいったかわからない。

◇◇◇

 たまに私は彼女を思い出す。青山の地はもちろん、一緒に歩いた場所やつれていってくれた大人のお店、そしてこのところは一人の大人の女性としての人生に思い馳せるとき、彼女だったらどうしただろうとか、こういうことがあの人にも起きたかもしれない。あの人だったらどう言うのだろう、とか。

 まだ青山の骨董通りあたりにコンビニエンスストアはもちろん、チェーン店のような出店がない頃、スーパーの紀ノ国屋は路面店であった。鏡張りのような外壁に映る街並みは外国のようだった。紀ノ国屋のエレベーターはエレベーターボーイが常駐していたっけ。田舎娘の私が「青山の街は素敵」と言うと、おばは「そう?私はやっぱりパリが好きだわ」と言っていた。

 独身で過ごしたおばに、生涯想いを寄せていた人がいたのはみんなが知っていた。仏壇にたった一人、その人の写真を飾っていたから。おしゃれだった彼女が、だんだんと髪染めをやめていき、大病をした後は人嫌いが加速してさらに気難しくなっていったけれど、不思議と気にならなかった。最後の日まで私以外の家族が彼女と疎遠になっても、私が頻繁に訪れていた。電話で最後に話した会話で、「また(お彼岸に)お坊様をお呼びになるのなら、私もお邪魔したいです」と言うと、いつもと違っておばは少しだけ沈黙をし、「…そうね。もし、そんなことがまた、あるのならね。あなたに声をかけましょう」と言った。これが最後。彼女との、最後。

◇◇◇

 見ていないから、彼女の人生の結末は私にとってはミステリーだ。弁護士から伝え聞いている、少々クリミナルなにおいのする事実と別にしても。そういうことと別にしても、単純にあの人が恋しいと思う。

 おば様、なんと紀ノ国屋さんはもうビルの中に入ってしまったのですよ。青山通りに信じられないお店がいっぱいきましたよ。というか、もう落ち着いた大人の街というよりは、にぎやかな人の行きかう街に変わったのですよ。そうそう、しょっちゅう連れていってくれたアンデルセンも、ビルを壊してしまいました。おば様、なんと私はもう、都内であれば地下鉄を縦横無尽に乗れるので心配は要らないのですよ、おば様。

 そうして西麻布の交差点には、かわらずホブソンズが在る。おばの予言のとおり、やっぱり私の気に入る店であった。もう彼女に伝える術はない。

 これが私の、「ホブソンズ紀行」である。


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