重さと軽さ
人間の免疫ってすごいな、と思った。
病気のことではない。
土曜日、先日の大作「エンジェルス・イン・アメリカ」の第2部4時間を観劇してきた。前回の第1部3時間の際、自分が集中環境に入るのにとても難儀したのだが、昨日は最初からスッと入れたうえに楽しむことができたからだ。さほど日を置かずに、同じ体験をしたことで自分のなかに自ずとそのスタンスが生まれていたのだと思うと、人間の慣れ、耐性、免疫ってやっぱりすごいじゃーん、と思ったのだ。
今ってタイパなど呼ばれ、時間効率がことのほか好まれる時代だ。自分も片時もスマホを手放さず(これは中毒化しているので悩み)、なにか情報を探し続けて消費しつづけている。気にいれば深く参加、気に止まらなければ通り過ぎていく。日々膨大な情報の前を。
そんな日々にふと思う。浪費されるコンテンツとそうでないコンテンツについて、そしてまた、自己も浪費されるのみなのではないか、という仕事の在り方を重ね合わせちょっとした虚無。KYOMU!だから私は、「エンジェルス・イン・アメリカ」に挑もうと思ったのだった。変な言い方だけどこれは真理で、新聞批評にあった「言葉の大作」というそれに対峙してやろうと思ったのだ。対峙して私に何か残るかもしれない、という切なる思いがあった。チケットを取ったころ、それくらい自分は何かしら渇ききってからからになってしまっていた。
そんなふうに「何か得てやろう」として観た第1部は、まさに私の右頬を張るようなものだった。今ってほんと全編に山や見せ場をぷちぷち仕掛けて飽きさせないことや、反対に最大視聴率獲得を狙って1点豪華主義であったりとか、オーディエンスに好まれるようにしかコンテンツを創れないエンタメが貧しい時代だと思う。そしてそれにすっかり慣れ切ったオーディエンス、少なくとも私自身においても貧しい消費者となり下がった。だからこそ、スキップできない3時間の、前後関係や心情をきちんと構築していく生の舞台観劇は自分にひとつの重みを強いた。これがことのほかよかったことだと思う。そして、「何かを得てやろう」という不遜な人間を椅子から引きずり落とすほどに演者らの迫真は目を開かせるものがあった。
この日、なんだかんだいって私は肩だけでなく全身に挑む気持ちで力が入りすぎていて、舞台を楽しむという感覚よりも生の人間の技にぶちのめされてくるという感じであった。
◇◇◇
第2部4時間、とにかく時間が貴重な時代にあってさすがに怯む。1部と違って土曜日なのでそのあとの心配もない分、少しそもそもが気楽であったけれど、驚いたことに幕が上がると最初から楽しめた。とにかく自分がリラックスしており、挑む姿勢も心の奥のこわばりも何もない状態で舞台を受け止めたことで、素の心はただ楽しさで満たされたのだった。
これにまずすぐ気がついて驚いた。
そっか、前回集中に時間がかかったけれど、そのたった一度のおかげで私はもう楽しむ準備ができているのか。
それは取りも直さずお芝居が面白かったからというのはもちろんのことだ。
◇◇◇
そして気づきは加速する。1部の際にはメインキャスト(いやもう全員がメインキャストなのだが)の若々しく弾けるパフォーマンスにとにかく釘付けになり、彼が舞台にいると視線が吸い付けられてしまう感覚だったのに、2部では自分の味わい方が幅広くなっていることに気づいた。すべての演者のパフォーマンスはもちろんのこと、銀色の巨大な天使の羽がゆっくりと背後で動く美術においても、羽が動くときの関節の動き方や、何もない背景としてのカーテンに風があたり、柔らかく揺れるそのタイミングと速さすらも、スタッフさんたちは計算したんだろうな…などと思った。
NYの公園の風、秋の落ち葉、行きかう交通音、そうしたものが劇場にいても匂いまで感じられるようであった。素敵だ。
4時間は前回よりもあっという間であり、とにかく楽しかった!という感想だった。
ああ、これでいい。これでいいんだ、と心から思って帰宅の足取りは軽い。幕があくまでの日々、開いてからも最終日までの間、演者たちはどれだけの鍛錬とまた労りを自身に施したかを想像する。そして、最初のころの間合いはもしかしたら心でカウントをとったりしたのかもしれないが、終盤になればそれは呼吸で可能となっていっただろう。声の張り方も落とし方も、ひとつの舞台を経るごとに確信が生まれ、それらを巧みに操縦したであろう。それのすべてが人間であることに改めて強烈な生身を感じた。
それに役者が一人ずつ自己の個性を追求したらすべてうまくいくわけではなく、きっと舞台はとっちらかってしまう。演出家という存在の難しさを想像した。もちろん役者だけでなく、照明や音、美術まですべて監修して調和させるのだから、すごい仕事だなと思う。
ひとつわかったことには、人間の技を味わえる贅沢な体験はこのうえないということで、今回実はチケットをB席にしてみてどうなのかなと思っていたが、全然問題なく楽しめたので良い席にこだわらずどんどん観劇体験を増やしていこうと思う。
余談だが、アメリカのゲイが登場する演目には「サンセット大通り」や「欲望という名の電車」のパロディがお家芸的に入ることがよくあるのだが、「エンジェルス・イン・アメリカ」でもゲイのプライアーが「デミル監督、クローズアップを!」と、「私はいつも見ず知らずのかたのご親切にすがって生きてきましたの」という名セリフをギャグのように使用していて「やっぱりそうなんだ~」と納得してしまった。たしか、「ステラァ!」も言っていたような気がする。