
峠の茶屋にあるものは
満ち足りて目が醒めると、冬至のころに感じるような空気のすがすがしさを感じ、同時に自分自身の心のうちも澄み渡っていくように感じられた。自分の場合、性根が悲観的なものだから放っておくと悲観的気分にあっという間に侵食されがちだ。大抵はその兆しが見えると必死に気配を打ち消しながら、なんとかそうやって日々を暮らしている。
ところが、今日の目覚めには一切の不安や憂いがなく、ひたすらにクリアである意味で幸福感すら覚えた。こういった目覚めが実に希少なわけだから、それは相当に新鮮で驚きであった。何が原因しているかわからない。ただ、ひとつのことが原因ということではなく、いろいろの見えない要素が複合的になにかの充足となって訪れているのだろうと思えた。これは新鮮であった。
◇◇◇
暮れていく夕暮れの空を眺めながら、この充足のひとつには自分から飽くなき渇望の心が消えたからだと思えた。
もっと欲しい、もっと成長したい、もっとこうなりたい、もっと愛されたい、もっと、もっと、もっと。
こういう外側になにかを過度に求めるマインドというのは、おそらく自分自身で満たすことができないからだったと思う。そんで大抵そういうのは20代、せめて30代でみんなそれぞれ家庭を持つだのして、自分にフォーカスしまくった生活から卒業していくと治まるものだと思う。自分はひとりで生きると大層立派に宣言した割には、おそらくはそうした外側のものに満たされることなしに自己を受け入れることができなかったのだろう、とふと思えた。
◇◇◇
それを裏付けるように「もういいや」というあきらめではなく手放せるようになってきたのだ。一種のあきらめと同意なのかもしれないが、自分はよくやったなこれまで。という思いでもあったりする。もう充分にやったんじゃないか、いろんなこと。それでいまこうなのであれば、もうこの辺がマックスであって、もうそれを受け入れていいんじゃないか。いやあこれがおそらく年を取ったということだと思いますね!
でもそれでいいと思う。年取ったんだ。飽くなき求める心というのは、若いうちならば成長に必要な原動力だけど、やっぱりいつまでもそれでは魂の成長が足らないんじゃないかと思えてしまう。一方で、いまあるもので満足することで心の安寧とか落ち着きが得られるのだとすると、自分が表現者とかであったならこれは命取りにもなるように思えた。みんなおしなべて「満足など一度もしたことない」と言うじゃないか。
◇◇◇
目覚めと共に訪れた美しい受容と幸福感は、徐々にうすれていき内側に飲み込まれたように思う。
ただ、まもなく1年の暮れがくるというその前夜に、このような発見ができたことは何合目かの峠を無事にのぼりきったような爽快感をつれてきたのだった。