「ピーター・ドイグ展」@東京国立近代美術館
東京国立近代美術館で2月26日から開催された「ピーター・ドイグ展」。スコットランド出身のアーティスト、ピーター・ドイグ(Peter Doig)の日本で初となる個展だ。新型コロナウイルスの影響で、開幕したにもかかわらず2月29日~3月15日まで休館を余儀なくされ、只今は鑑賞することができないが、休館が明けたらぜひとも観てほしい展覧会だ。
はじめに:ピーター・ドイグとは
1959年、スコットランドのエジンバラ生まれ。カリブ海の島国トリニダード・トバゴとカナダで育ち、1990年、ロンドンのチェルシー・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインで修士号を取得。1994年、ターナー賞にノミネート。2002年よりポート・オブ・スペイン(トリニダード・トバゴ)に拠点を移す。
テート(ロンドン)、パリ市立近代美術館、スコットランド国立美術館(エジンバラ)、バイエラー財団(バーゼル)、分離派会館(ウィーン)など、世界的に有名な美術館で個展を開催。
同世代、後続世代のアーティストに多大な影響を与え、過去の巨匠になぞらえて、しばしば「画家の中の画家」と評されている。
(東京国立近代美術館HPより抜粋)
1959年生まれという事は現在61歳。本来であれば来日してトークイベントが開催される予定だったが、残念ながら中止となってしまった。ちなみに展覧会では全点(だったはず)の作品の撮影がOKになっているので、カメラは必須で入場しよう。
第1章:森の奥へ 1986年~2002年
第一章は、これまでの画業の前半、ドイグが多く描いた大型作品が一堂に会す。多くは湖畔を描いた作品で、それらはカナダの自然がモチーフとされているが、実際の風景としての再現性はほとんどない。どこか特定の場所ではない、だけど”どこかで見たことある”感覚を観る者に与える。どこで見たのだろうか…それは、絵本かもしれない。幼い頃に一度だけ行った旅先かもしれない。夢の中かもしれない。鑑賞者はドイグの絵を通して、いつの間にか自らの遠い記憶を彷徨う。
《天の川》
《天の川》は、私が一目見て心惹かれた作品。絵本でありそうな底抜けの明るい夜空。だけどどこか恐ろしい気もする。池の中に浮かぶ一艘のカヌーを繰り返し描いているが、これは映画『13日の金曜日』のラストシーンから着想を得ているそうだ。
《のまれる》
画面の3分の2が水面世界。パット見た瞬間のイメージは”クリスマス”だった。哀しくなるくらいの明るさ。水面下に広がる世界の方がより輝いていることが示唆するものとは…《のまれる》というタイトルは、実像が虚像にのまれるということだろうか。
《スキージャケット》
90年代の日本のニセコのスキー場の新聞広告を元に描かれた作品。一緒に訪れた知人が「JR東海のCMの世界ですね!」との一言。確かに時代的にそうだ。このゲレンデにも「ロマンスの神様」が流れているのだろう。スキーに興じる人々は小さく描かれ、”群衆”となって散りばめられている。こうした手法はブリューゲルのそれに通じている。
《カヌー=湖》
一艘のカヌーの上で突っ伏した姿勢の女性。彼女はもう生きていないだろう。滑った水面、全体の緑基調の画面から醸し出される物々しさが不穏さを強調している。隣に並ぶ《エコー湖》では、湖畔に佇む一人の男性が頭を抱えておりその脇には一台のパトカー…2点の作品が並ぶことで、キャンヴァスを越えた想像(物語)が頭をよぎる。
会場で観ていて、全体で感じる”不穏さ”がどこから来るのか上手く言えないもどかしさに苛まれてしまう。ドイグには意識的か無意識かはわからないが、”彼岸と此岸”の対比の意識があったのではないだろうか。絵の中における「水面より上の実像(=此岸)」と「水面に映る虚像(=彼岸)」という対比と、「キャンヴァスの中(=彼岸)と外(=此岸)」という二重構造だ。そしてこの対比は明瞭に分かれてぶつかるのではなく、その境界が曖昧なのだ。《のまれる》では画面のほとんどが水面であり、水面に反射した世界の中に実像であるカヌーが存在しているように。こうした水辺の風景の作品が大画面であるのも、鑑賞者が位置する場所から地続きの中でいつの間にか彼岸の世界に来てしまった錯覚に陥らせる効果を狙っているのだろう。
《コンクリート・キャビンⅡ》
ル・コルビジェが設計した集合住宅(ユニテ・ダビタシオン)を木陰越しに描いた作品。ちなみにこのユニテ・ダビタシオンについては、下記のサイトで写真を見ることができるのでご参考まで。http://www.linea.co.jp/info/detail/?iid=17
一見抽象画のようにさえ見えるけれど、落ち着いて観れば、木々、住宅などそれぞれのモチーフは極端なデフォルメもなく”ちゃんと”描かれている。なのに最初の一瞬でちょっとした混乱が生じるように絶妙なバランス感覚で画面を構成する。ドイグの作品の魅力は、現実世界を描いているのに、どこか夢の世界のような非現実感(白昼夢的)だろう。
《ガストホーフ・ツァ・ムルデンタールシュペレ》
今回の展覧会のメインビジュアルにもなっている本作品。空はオーロラのような光が輝き、地面も空気も蒼く眩い。幻想的な世界の中で、男女二人がじっとこちらを見つめている。彼らは何を訴えかけようとしているのか。カラフルな石で飾られた塀、その塀が作る道の先は一体何があるのだろうか。よく見ると湖にはドイグの目印ともいえるカヌーが浮かんでいる。意図的に塗られていない未完の木が気になる(駄洒落になってしまった)。
第2章:海辺で 2002年~
ドイグは、2002年に活動の主な拠点を、ロンドンからトリニダード・トバゴの首都、ポート・オブ・スペインに移します。移住前後から、彼は海辺の風景を主なモチーフに選ぶようになり、さらにこれまで比較的厚塗りだった画面が、キャンバスの地の部分が透けて見えるほどの薄塗りの油絵具、または水性塗料による鮮やかな色彩のコントラストによって構成されるようになりました。
(展覧会特設サイトより一部抜粋)
この時期の作品では、タヒチの人々を描いたゴーギャンのように、トリニダード・トバゴの人々を描く。しかしここでもドイグはその場所を”ありのまま”には描かず、また”楽園”や”原風景”的な理想化もしていない。日常の中に非日常さを溶け込ませ、見る者の不安を掻き立てる。それは1章で観た作品のような分かりやすい”不穏さ”ではなく、「自分だけ共有できていない事」からくる不穏さなのかもしれない。一人だけ現地の言葉がわからない疎外感とでも言おうか。ドイグ自身はかつて住んでいたので言葉がわからないという事はないかもしれないが、”一人だけ余所者”という感覚はあったのかもしれない。そうしたどこまで行っても溶け合うことのない一線があって、その視点から見た感覚を画面の上で再構築しているのではないだろうか。
作品名を控えるのを忘れてしまったが、この章ではこの作品だけ撮影した。おじさんがジャングルの中で一人卓球をしている作品など不可解な作品もあり、カリブ海地域の風俗とドイグ独特の画面構成が融合する。
《ラペイルーズの壁》
照りつける日差しの中、一人の男が塀の脇を傘を差して歩いている。ただそれだけの光景が強烈な印象でもって見る者の眼に焼き付く。画面を大胆に分割する塀、地面と塀の接点、歩道の段差の影、それらが作るシャープな直線が画面の右側、はみ出た所に設定されている消失点の存在を意識させる。雲一つない青空、強烈な日差しが作る黒々とした影、空気も時間も停滞したかのような無音の中を一人歩く男。手にする傘は男の体にもファッションにもあっていない少女が持つような可愛らしいピンクの傘。
第3章:スタジオフィルムクラブ ─コミュニティとしてのスタジオフィルムクラブ 2003年〜
スタジオフィルムクラブとは、ドイグがトリニダード・トバゴ出身の友人のアーティスト、チェ・ラブレスと2003年より始めた映画の上映会です。ポート・オブ・スペインのドイグのスタジオで定期的に開催されています。誰でも無料で参加することが可能で、映画が終われば上映作品について話し合ったり、音楽ライブへと展開したりする。一種の文化的サロンのようなコミュニティの形成を目的としたプロジェクトです。
(展覧会特設サイトより一部抜粋)
展覧会の最後は、ドイグが友人と企画した映画上映会のためのポスター。数々あるポスターの中には小津安二郎監督の『東京物語』や松本大洋原作の『ピンポン』などの日本映画もある。それぞれの映画のテーマがドイグの視点で再構築されている。元の映画を知っていればなお楽しめたのだろうなぁと、映画音痴の私は少し後悔。大画面作品とは異なりタッチもラフなので、肩の力を抜いて描いている感じが心地いい。それでも冴える画面の構成力。
終わりに
およそ70点の作品が展示されている本展は、ピーター・ドイグという画家を知っている人なら垂涎もの、知らない人には衝撃的な出会いをもたらす展覧会。日本人、特に若い人は好きな作家だと思う。ムンク、クリムト、シーレ辺りの作品が好きな人にはおススメ。
図録を買わなかったことを後悔し、この記事を書く際にHPやドイグに言及したサイトを漁って「そうだったのか」と思うこともあったので、リベンジのためにも再訪したいと思う。