「嫌われる勇気」を読んだまとめ Vol.5
おはようございます.よもぎです.
皆さんいかがお過ごしでしょうか.秋ですね.といっても非常に寒いですが.秋って何なんですかね,暑かったり,寒かったり.ちょうどいい気温ってないんですかね.さて,世間ではイベントシーズンで様々な催しものでにぎわう季節になるはずでした.しかし,今年は「コロナウイルス」の影響で様々なイベントが自粛ムードとなり,中止になったイベントもあるのではないでしょうか.僕の学校では毎年「高専祭」という学校祭があって,飲食店などがあり非常に盛り上がるのですが,今年はコロナウイルスの影響を考え飲食店の出店が禁止となり,少し縮小した規模での開催となります.少し寂しいですが最後の学校祭,楽しんでいきたいな,と思います.あ,学校祭は明日です.
最近ずっと投稿し続けている「嫌われる勇気」を読んだまとめシリーズなのですが,一番最初に投稿したvol.1と最近投稿したvol.4をたくさんの方に見て頂けているようで非常にうれしく思っております.先日投稿したVol.4の内容は「課題の分離」について記載しており,非常に自分の考え方に影響を及ぼすようなものでした.
前回,課題の分離についてお話しましたが,これは「他者の課題」と「自信の課題」を分離して考え,他者の課題には一切関与せず,自分の課題にも他者を介入させない,という考え方でした.しかし,この考え方,「自分は自分」,「人は人」という風に考えるため,孤独感を強めてしまうと思いませんか?
アドラー心理学ではすべての悩みは対人関係の悩みである,という風に説きます.この「課題の分離」の考え方に沿って,他者と境界線を引くことで孤立感を強めることが,対人関係の悩みをなくすゴールなのでしょうか.もちろんそんなことはありません.課題の分離は対人関係のスタートなのです.導入の部分が長くなってしまいましたが,最後にアドラー心理学における対人関係のゴールを示して,導入は終わりにしたいと思います.アドラー心理学における対人関係のゴール,それは「共同体感覚」です.それでは本日の内容に入っていきましょう.
追記
今回の内容は抽象的なものが多く,それぞれの項目の関係を理解するのが非常に難しかったため,最初に「まとめ」を読むことをお勧めします.まとめは下の目次から飛べますのでぜひそちらからご覧ください.
共同体感覚
導入でお話した通り,アドラー心理学における対人関係のゴール,それは「共同体感覚」です.以前,対人関係の中に競争があると,他者のことを「仲間」ではなく「敵」であるというようにみなしてしまう,ということをお話ししました.他者が敵ではなく仲間であり,仲間に囲まれて生きているとしたら,私たちはそこに自らの「居場所」を見つけ出すことができますよね.そして,仲間たち(ここでは共同体という言葉を使います.)のために貢献したい,という風に思うことでしょう.このように,他者を仲間だとみなし,そこに「自分の居場所がある」と感じられることを,共同体感覚といいます.何となくわかったでしょうか?結局は他者に貢献したい,自分には居場所がある,と思えることになることがゴールなんですね.
先ほど「共同体」という言葉を使いましたが,この共同体の中身は何を指すのでしょうか.それは宇宙全体です.はい,わけわからなくなってきましたね.僕はここで「は?」ってい言いました.共同体は過去から未来,そして宇宙全体を含んでいます.ここでは共同体は会社や家族といった枠組みではなく,非常に広い概念なんだな,と思っていただければ大丈夫ですし,僕もそのように理解しました.この「共同体は広い」という考え方が後々重要になってきますので,覚えておいてください.
自己への執着から他者への関心に
ここで一つ質問です.あなたにとって「自己中心的な人物」とはどのような人物のことだと考えますか?僕は他人の迷惑を顧みず,自分の都合しか考えない.世界は自分を中心に回っていると考える暴君のような人物が浮かびました.また,集団の和を乱す人間も自己中心的な人物だと考えることができるのではないでしょうか.集団行動ができず,単独行動を好む,自分勝手な人間も自己中心的な人物として浮かびました.自己中心的な人物への一般的なイメージは上に述べた通りなのではないでしょうか.
しかし,ここにもう一つ付け加える必要があります.「課題の分離」ができておらず.承認欲求にとらわれている人間もまた極めて自己中心的なのです.
承認欲求にとらわれている人間が自己中心的なのであれば,承認欲求の塊である僕は漏れなく自己中心的な人物という集合を満たす要素であること間違いありません.どうして僕のように承認欲求にとらわれている人間は自己中心的であるということができるのでしょうか.
他者からの評価を気にかけている人,それは他者がどれだけ自分に注目し,自分のことを評価してくれるかを気にかけています.つまり,他者がどれだけ自分の欲求を満たすかにしか興味がなく,承認欲求にとらわれている人間は他者を見ているようで結局自分にしか興味がないのです.
つまり,他者から「どう見られているか」ばかりを気にする生き方は「わたし」にしか関心を持たない自己中心的なライフスタイル(生き方)ということになります.
世界の中心はどこか
自分の人生の主人公は誰でしょう.それは間違いなく「わたし」ですよね.まず,私たちは共同体に所属しています.その共同体の中に自分の居場所があると感じられること,「ここにいてもいいのだ」と感じられる,つまり所属感を持つことは人間の基本的な欲求です.つまり,仕事も勉強も恋愛もすべて「ここにいてもいいのだ」と思える場所や環境を探しているということになります.
上に述べた通り人生の主人公は「わたし」ですが,ここで勘違いしてはいけないのは「わたし」が世界の中心に君臨しているのではない,ということです.「わたし」は人生の主人公ではありますが,あくまで共同体の一部であり,全体の中の一部であるということを忘れてはなりません.
人生の主人公をとびこえ,世界の主人公になってしまうとどうなるのでしょうか.世界の主人公になってしまうと,自分以外の他者にたいして「この人は私に何を与えてくれるのだろうか?」と考えるようになります.しかし,実際には他者は自分のために生きていませんから,他者が自分に何かをしてくれるという期待が満たされなかったとき,「あの人は私に何もしてくれなかった」「あの人は仲間ではない,敵だったのだ」という風に考えます.そして世界が仲間ではなく敵だらけになってしまうのです.
ここでこのトピックの最初に戻ります.私たちは「ここにいてもいいのだ」という所属感を求めて生きていくわけです.アドラー心理学では所属感とはただそこにいるだけで得られるものではなく,共同体に対して自らが積極的にコミットしていった結果得られるものである,という風に説きます.
この,積極的にコミットするというのはどういうことなのでしょうか.それは「人生のタスク」に立ち向かうことです.
ここでおさらいです.人生のタスクとは人間が成長していく中で持つ,様々な対人関係のことで,「仕事のタスク」「交友のタスク」「愛のタスク」の3つに分けられるものでした.これは以前投稿した「嫌われる勇気を読んだまとめ Vol.3」に詳しく書いていますのでぜひご覧ください.
この仕事,交友,愛の対人関係のタスクを回避することなく自ら足を踏み出していき,「この人は私に何を与えてくれるのか?」ではなく「私はこの人に何を与えられるか?」を考える.これが共同体へのコミットです.誰かに何かを与えてこそ,自らの居場所を得ることができます.
所属感とは,生まれながらに与えられるものではなく,自らの手で獲得していくものなのです.
より大きな共同体
先ほど「共同体感覚」のところで書きましたが,共同体は宇宙全体に広がっています.そこで「共同体」は広い,ということを書きましたが難しく考える必要はありません.「共同体の範囲は無限大」ということです.
つまり,何が言いたいかというと自分の所属する共同体はたくさんある,ということです.学校,職場だけがわたしたちの共同体ではありません.家族,市町村,県,国,など範囲を広げていけば,私たちは様々な共同体の一員であることに気づくはずです.「共同体の範囲は無限大」という考え方は,今自分が所属する学校や職場に自らの居場所を見つけることができない人のための考え方なのかな,という風に解釈しました.
具体的な例を見ていきましょう.例えば,学校で嫌なことがあったとしましょう.友達にいじめられた,先生に理不尽なことを言われた,などいろいろなことが考えられますよね.僕にもあります.いじめられた経験もあるし,先生に理不尽なことを言われたり,されたこともあります.ここで「学校」という共同体がすべてだと考えていると自分の居場所,つまり「所属感」が感じられませんよね.そうしてより小さな共同体,例えば家庭の中に逃げ込んで,引きこもりになったり,家庭内暴力などに走ることによってどうにか所属感を得ようとすることになりかねません.
ここで注目すべきなのが「もっと別の共同体があること」,特に「もっと大きな共同体があること」です.学校の外には大きな世界が広がっていますし,学校に居場所がないのであれば,学校の「外部」に居場所を見つければよいのです.このお話に登場する哲人は「退学届一枚で縁が切れる共同体など,しょせんその程度のつながりでしかありません」という風に言っていました.「たしかにな」と思いました.
しかし,理屈としては納得できますが,実際に学校をやめることは難しいですよね.ここで一つ,大事な行動原則を紹介します.私たちが対人関係の中で困難にぶつかったとき,出口が見えなくなってしまったとき,まず考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」という原則です.
先ほど学校を例に挙げたのでそのまま学校の例で考えてみましょう.学校なら学校という共同体の共通感覚で物事を判断せず,より大きな共同体の共通感覚に従うこと,これが重要なのです.例えば,僕の学校で教師が絶対的な権力者としてふるまっていたことを考えてみましょう.しかし,このような権力や権威は学校という小さな共同体だけで通用する共通感覚であって,それ以上のものではありません.「人間社会」という共同体で考えれば,僕も教師も対等な関係であるため,真正面から異を唱えることも可能です.
しかし,真正面から他者に異を唱えることは難しいですよね.学校の先生であればなおさらでしょう.しかし,自分が異を唱えることによって崩れてしまう程度の関係なら,そんな関係など最初から結ぶ必要などないのです.
関係が壊れることだけを恐れて生きるのは,他者のために生きる,不自由な生き方なのです.
他者をほめない
この本に何度も出てくる「課題の分離」とは他者の課題に介入せず,自分の課題には他者を一切関与させない,という考え方でした.それに対して「共同体感覚」とは他者に貢献することによって得られる「ここにいてもいいのだ」という感覚のことでした.一見すると完全に真逆の考え方ですよね.以前も述べましたが,対人関係のスタートが「課題の分離」で対人関係のゴールが「共同体感覚」でした.この完全に真逆の考え方をどのようにつなげるのでしょうか.ここで登場するのが「横の関係」という概念です.
まず,アドラー心理学では「ほめてもいけないし,叱ってもいけない」,このような立場をとります.ほめるという行為には「能力のある人が,能力のない人に下す評価」という側面が含まれています.確かにそうですよね.ほめることの目的,それは「自分よりも能力の劣る相手を操作すること」なのです.母親が子供に家事を手伝ってもらったとき,当然褒めることでしょう.しかし,旦那が同じことをしたらどうでしょうか.さすがに子供と同じようにほめることはしないでしょう.つまり,無意識のうちに子供のことを自分より低く見ているのです.つまり,「縦の関係」を結んでいるということになります.
アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し,すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱しています.以前もお話しした通り,私たちはすべて「同じでないけれど対等」なのです.以前劣等コンプレックスや優越コンプレックスの話をしましたが,そもそも劣等感というのが対人関係を「縦の関係」で見ていることから生まれてくるものなのです.あらゆる人に対して「同じではないけれど対等」という横の関係を築くことができれば,劣等コンプレックスが生まれることはありません.この劣等コンプレックスは他者と比較をして自分が劣っていると感じることによってすべてのやる気を失ってしまい,言い訳を始める状態を指す言葉です.このことは以前投稿した記事の「嫌われる勇気を読んだまとめ Vol.2」に詳しく書いてあります.
勇気づけ
先ほど,課題の分離のおさらいの部分で「介入」という言葉を使いました.ではどうして人は他者の課題に介入してしまうのでしょうか.それは,対人関係を縦でとらえ,相手を自分より低く見ているからです.相手は自分よりも下だから相手は間違っている,自分が正しい.だから相手を望ましい方向に導こうとする.これは「操作」に他ならないのではないでしょうか.
ということは困っている他者を見ても「これは介入だから」「操作になるから」といって見過ごさなければならないのでしょうか.もちろん,答えは否です.この場合,介入にならない「援助」をする必要があります.
以前,課題の分離を説明する際に「勉強をしない子供」の例を挙げたため,ここでもその例を用いてご説明いたします.子供が勉強する事は最終的に誰のためになるのでしょうか.子供のためですよね.そう,つまり子供が勉強する事は子供の課題なのです.この課題に対して「勉強しなさい」や「あの大学を受けなさい」というのが介入です.
一方の「援助」は大前提に課題の分離があり,横の関係があります.勉強する事は子供の課題なのだ,ということを理解したうえでできることを考えます.具体的には本人に「自分は勉強ができるのだ」と自信を持ち,自らの力で課題に立ち向かっていけるように働きかけることが「援助」です.この働きかけに強制力はありません.課題を分離したまま,自らの手で解決していけるように援助します.
こうした横の関係に基づいて援助することをアドラー心理学では「勇気づけ」といいます.
人が課題を前に踏みとどまってしまうのはその人に能力がないからではありません.「課題に立ち向かう勇気がくじかれていること」が問題なのです.ではその勇気をどのように取り戻すのでしょうか.
手っ取り早い方法が相手を「ほめる」ことによって自分に能力があることを実感させ,勇気を持たせるということだと思いませんか?ここからが衝撃でした.人は褒められることによって「自分に能力がない」という信念を形成していくそうです.
これ,やばくないですか?こんなこと思って褒められたことありますか?なんだこれ?!って感じですよね.詳しく見ていきましょう.先ほど,アドラー心理学で他者をほめることを否定するということを書きました.もし,自分が他者に褒められることに喜びを感じているのだとすればそれは縦の関係に従属し,「自分には能力がない」ということを認めているのに等しい,ほめることは「能力のある人が能力のない人に下す評価」なのだから,そう哲人は言います.
また,ほめてもらうことが目的になると他者の価値観に合わせた生き方を選ぶことになる,と哲人は言います.この段落に書いてあることは納得できました.でも正直言って今の僕には上の段落の内容は言い過ぎじゃないの?と思いました.さすがにほめられると自分に能力がないんだなぁと思うことにつながるっていうのは無理があるな,と思いました.しかし,もしかしたら気づかないうちに褒められることで自分に能力がないという考えが形成されて行っているのかもしれませんね.そうだとすればこの考え方は正しいということになりますね.ああ,怖い怖い.
自分には価値があると思うために
先ほどから「勇気づけ」について記していますが,勇気づけをするためにどのようなアプローチをすればよいのでしょうか.褒めてもいけない,叱ってもいけない,他にどのような選択肢があるでしょうか.
最も大事なことは,他者を「評価」しないということです.評価は対人関係を「縦」の関係で見ているから出てくることで,「横」の関係で見ているとするのであれば評価するということはないでしょう.
手伝ってくれたパートナーに対して素直に「ありがとう」と感謝の言葉を伝える.ただそれだけで良いのです.自分の子供が手伝ってくれた時もそうです.これが横の関係に基づくアプローチです.
褒められるということは他者の物差しで測られて,「よい」という評価を受けているということです.他者から褒められようとするとどうしても自分の自由を捨てて他者が望むような行動をとる必要があります.それに対して「ありがとう」という言葉は評価ではなく純粋な感謝の言葉です.人は感謝の言葉を聞いたとき,自らが他者に貢献できたことを知るそうです.これはアドラー心理学における立場ですね.あまりピンときませんが,とにかく他者を評価するのではなく,純粋な気持ちを伝えることが大事なんですね.そして人が勇気を持つためにはどうすればよいのか,アドラーの見解は「人は,自分に価値があると思えた時にだけ勇気を持てる」だそうです.
ではどのようなときに「自分に価値がある」と思えるのでしょうか.答えはシンプルです.人は「私は共同体にとって有益なのだ」と思えたときにこそ,自分の価値を実感できる.これがアドラー心理学の答えになります.つまり,自ら他者に働きかけ,「誰かの役に立っている」と思えること,他者から評価されるわけでもなく,自らの主観によって「私は他者に貢献できている」と思えたとき,私たちは自らの価値を実感することができるのです.
すべての関係を横の関係へ
僕は小学生のころ先生に「先生によって態度を変えてはいけません」とよく言われていました.当時はそうなんだな,って思っていましたが20歳になった今考えるとすべての人に同じ態度で接するのって無理があるし,「先生によって態度を変えるな」っていうのは先生側がやりやすいようにするための命令じゃん,そう思うわけです.
先ほど縦の関係ではなく横の関係を結ぶことをお話ししましたが,あなたはすべての人と横の関係を結ぶことができますか?友達なら大丈夫ですよね.でも,上司や先生と横の関係を結ぶことができますか?できないと思いますよね.哲人によると人間って不器用なもので「この人とは対等に」「こっちの人は上下関係を」という風にできないみたいです.もし自分が一人でも縦の関係を築いているとしたら,自分が気づかないうちにあらゆる対人関係を「縦」でとらえている.そう哲人は言います.
先ほどなぜ小学生の頃の話をしたのかというと「すべての先生に同じように」という考え方が「すべての人との横の関係を」というのに似ているな,という風に思ったからです.わかりにくかったらごめんなさい(笑).
誰か一人でも縦の関係を築いているとすべての対人関係が縦になる,裏を返せば誰か一人でも「横」の関係を気づいていればそれを突破口にすべての関係が「横」になっていくということです.
しかし,実際の社会で新人が社長に対等な関係を結ぶことができるのでしょうか.確かに年長者を敬うことは大切です.この「横」の関係を築くということは友達のようにふるまう必要がある,ということではありません.意識の上で対等であること,そして主張すべきは堂々と主張することが大切,ということを言っています.
場の空気を読んで自分の意見を押し殺すこと,それは自分の責任を回避する事他ならないのです.自分の意見を言わずに相手の意見に従った結果失敗した.しかし,それは相手の意見であるため自分の責任ではない.これは無責任ですよね.僕も自分の意見を言えずに黙ってしまうことが少なくないですしそこがいけないところだと思っています.このように自分の意見を押し殺すことが無責任なことだ,とはっきり言ってもらえるとしっかり,堂々と自分の意見を言わないとな,と思います.なんか薄っぺらい感想になりましたが本当に思ってますよ(笑).
まとめ
すごく長くなりましたが,これで4章は終わりです.途中からなんで横の関係の話をしているんだろう,というようにわけわからなくなってきました.ここでいったん整理しておきます.
まず,対人関係のスタートは「課題の分離」です.他者の課題には介入してはいけません.介入ではなく他者を「援助」する必要があります.援助するには「横の関係」を結ぶ必要があります.人はみな同じではないけれど平等という感覚を持ちます.他者の課題を援助する際にはほめてはいけません.「勇気づけ」をする必要があります.
人は共同体にとって有益だと感じられたときに勇気を持つことができます.そして人は他者から感謝の言葉を聞いたときに他者に貢献できたことを知ります.そして,他者に貢献できたと感じたときに自らの価値を実感することができます.そして,「ここにいてもいいのだ」という所属感を得ることができ,「共同体感覚」を得ることができるのです.
いまここでまとめを書いたことによって頭の中を整理することができました.これを読んでからもう一度読んでもらうとわかりやすいのかな,と思います.
今回の話の中で一番かっこいいなぁと思ったのが,「自分が異を唱えることによって崩れてしまう程度の関係なら,そんな関係など最初から結ぶ必要などない」というところです.これはその通りですよね.いままでうまくいかなかった人間関係,すべてこれだった気がします.これは本当に共感しました.
今回「ほめるという行為は他者のことを下に見ている」ということを書きましたが,褒められることが大好きな僕は褒められることで他者から下に見られることを望み,自らに能力がないという概念を形成しているということになりますね.全力で否定したいところなのですが,多分これ正解です.自分がなんで褒められたいのかなということをよく考えてみたのですが,多分「こども扱い」されたいんです.何かの本で見たことあるのですが,男っていうのはいつまでも子供でいたい生き物なんだそうです.これ,完全に僕です.誰かにチヤホヤされたい,褒められたい,という感覚,なんでかな?と考えたら子供でいたいからなんだな,という結論に至りました.すごくすっきりしました.今回の記事でこれに気づけたからよかったなと思います(笑).
おわりに
みなさん,今回の記事はいかがだったでしょうか.非常に長くなってしまい申し訳ありませんでした.冒頭で学園祭は明日です,って書きましたが,いま「おわりに」を書いている僕から見れば学園祭は10日前です(笑).お前,サボりすぎだろって感じですよね.忙しかったんです,ごめんなさい.っていってもバイトが忙しかっただけなんですけどね.
バイトではお客様に怒られることがあります.先日「こっちは客だぞ」というお言葉を厳しい口調でいただきました.その時こう思ったわけです.客と店員である前に1人の人間なのになぁ,と.店員に横暴な態度をとって怒鳴り散らすこと,それは対人関係を放棄したということになるのかな,思いました.ゆっくり説明すれば自分の思いを伝えることができるのに,「怒り」という道具を使って相手を支配して自分の力を見せつけたかったんだな,と僕は思いました.この考え方が正解かどうかは分かりませんが,そもそも正解というものはありませんし,自分の考えを他者に押し付けるのもよくありません.ただ,僕はこの「嫌われる勇気」を読んで,いままでの自分になかった考え方を知ることができてよかったな,という風に思ったわけです.
長くなりましたが,この辺で失礼したいと思います.次回はきっとこのシリーズの最終回になると思います.まぁ,僕のことなのでどうなるかはわかりません(笑).楽しみに待っていてください.それではみなさん,今週も頑張っていきましょうね!!!
よもぎ