握りずしが全国に広まったのはいつか
かつて神楽坂には「大〆」という蒸し寿司と押し寿司を出す店があった。ステンドクラスの窓のハイカラな雰囲気の伝統的なすしの取り合わせが面白かったが、残念ながら2017年7月に閉店したようである。明治43年(1910年)創業だったとか。茶巾ずしが有名な四ッ谷3丁目の「八竹」は大正13年(1924年)だとか。
一方、関東の握りずしはいつ頃、大阪で広がっていったのだろうか。
大阪に握りずしが定着した契機は関東大震災
東京の名店、「松が鮨」は明治16年(1883年)に大阪の島之内に支店開店広告を朝日新聞(12月20日)に出している。
大阪学芸大教授をつとめた篠田統氏の『すしの本』は(昭和45年 1970年刊)は、大阪の「蛸竹」2代目の阿部直吉氏(明治8年 1875年頃の生まれと思われる)からの聞き書きを収録している。
これは年代の計算が合わないと注が入るが、いずれにせよ維新で江戸から脱出して来た職人がパラパラいて江戸風のすしが広がったそうである。
Wikipediaの「江戸前寿司」の項もこの資料によるものか
と書いているが、実はことはそう簡単ではない。日清戦争のあと物価が上昇した割にすしの値段はあがらず採算がとれなくなって
と、関東大震災で大阪の握りの需要が急増したことを語っている。
なにしろ大阪は、関東地方からの移住者などで東京をしのぐ人口の都市に成長し、大大阪時代と呼ばれる繁栄を謳歌していく。
また、現物は未見なのだが、「江 弘毅の食べること、飲むことについて毎日考える」というサイトによれば『浪華夜ばなし : 大阪文化の足あと 続』 (朝日文化手帖 ; 第47)に以下の記述があるようである。
こうした資料からみて、本格的な普及は関東大震災以降と考えるのが妥当だろう。
握りずしに必要な、わさびの供給という観点からも、大正期に握りずしが全国普及していく流れは納得性が高い。ひとつには、大正時代に粉わさびという画期的な発明があり、関東大震災の直前に販売が軌道に乗ったとみられるからだ。もうひとつは、西のわさびの産地である山陰から大阪へのわさび出荷が本格化する時期だからだ。
大阪の食文化を支えた山陰のわさび
粉わさびの誕生については回を改めて書くとして、ここで山陰のわさび生産について触れおきたい。
鳥取県のわさびの産地は中国地方最高峰の大山(標高1,729m)の麓で豊かな伏流水に恵まれた、倉吉市、東伯郡一帯である。鳥取県のわさびについては、実は『地域に学ぶ~高校生の郷土研究記録~』(鳥取県立鳥取東高等学校郷土研究部 1991年)P96の「蒜山北麓における山村の研究~東伯郡関金町のワサビ栽培について~」が詳しい。
・通説では明治40年(1904年)に小泉(旧山守村)の小椋平吉氏が自生していた野生種の田床栽培を行ったことが最初とされるが、明治初年に平吉氏の本家の小椋幸八氏が水栽培をしていたという説もある。
・当初は倉吉への出荷だったが、大正元年(1912年)に大阪天満の「畠山新一商店」へ出荷したのが大阪向けの出荷の始めである。
・昭和5年(1930年)旧山守村では島根・山口・静岡・長野の各県から種苗を導入し、島根と静岡県のものが残った。
・昭和6年(1931年)大阪中央卸売市場が開設され、「鳥取県農会鳥取ワサビ出荷団」が形成され、「大山ワサビ」の名称で出荷されるようになった。
高校生がこのような綿密な聞き取り調査を残してくれていたことは驚きであり、こうした資料を見つけてくださった鳥取県立図書館のリファレンス力に驚き敬意を表するとともに、地域資料の収集保存という図書館の役割の重要性を改めて痛感する。
鳥取県立大学短期大学部の『のんびり雲』(第7号 2013年10月)も小椋平吉氏の子孫への取材を行っている。
『山守村史』(山守ふるさと創りの会 1997年)も
延宝年間(1673年~1681年)といえば家綱、綱吉の時代なのでちょっと早すぎる気もするが、換金性の高い農作物として積極的に県外へ送られていた。
お隣の島根県でわさびの産地といえば三瓶山周辺。『三瓶山史話』(石村禎久著 太田市観光物産館 1967年)は、わさびの資料は少ないこと。徳川時代後期に津和野へ遊びにいった医師がみやげに持ち帰って渓流に植えたこと。全盛期が大正7~8年で、大正末期には病気で全滅の被害にあったことなどを記しており、昭和18,19年の大水害で再び全滅し、復帰が困難になったとしている。
山陰のわさび栽培は自然の地形を活かした方法であり、石組みを組む伊豆や平地で栽培する安曇野と比べても、自然災害の影響を大きく受けやすかったことだろう。
これらの資料から、大正期には山陰から大阪に向けてわさびの出荷が行われていたことが分かる。
そればかりではない、明治20年(1887年)4月10日の朝日新聞に倉吉湊町の小林甚吉なる人物が「伯耆名産 一食用 山葵精 一ビン 代価四銭」と広告を出している。
と、高らかに謳いあげている。
それももっともな話で、別の回の述べる予定の静岡での粉わさび製法の発明(大正時代)よりはるかに早いのである。
しかも、それからわずか6日後の4月16日には、小林稟天堂と名前も整え、たちまち大阪に味噌屋、漬物屋など6軒の販売所を設けたと広告している。
いったいどのようなものだったのか。西洋料理にも使えると言っているのだから、わさび漬けのようなものではあるまい。粉わさびだとすれば、歴史の通説がひっくり返る可能性がある。
国内生産一位、長野県のわさびは梨農家の副業だった
現在、国内のわさび生産量1位の長野県のわさび栽培はいつ始まったのだろうか。
具体的な時期はハッキリしないようだが、安曇野市のWEBサイトに手際のよい説明がなされている。
安曇野が梨の産地だっただなんて、今では想像もつかないことである。『ーー穂高わさびの歴史と栽培、加工法ーー』(宇留賀浜雄 信州山葵農業協同組合 昭和52年)から、さらに詳しく見てみよう。
となんとも豪勢であるが、その値段については結局
その最たるものが関東大震災だったが、震災復興が進み、昭和2年頃から金融恐慌で価格が暴落。昭和10年頃になると軍需産業の好景気で相場が回復するという値段の変動の大きな商品であった。
東京は奥多摩地方がわさびの産地
東京にもわさびの産地がある。その普及の過程については、意外にも山梨県の都留地方との連動性が指摘されている。
「専修人文論集」第48号(1991年)の「奥多摩地方におけるワサビ産地の形成と栽培農家の経営的特質」から引用しよう。
養蚕、コンニャク栽培、林業と併存していたわさび栽培は、1960年代以降の製炭産業の消滅で比重が増大していったという。
九州のわさびはいつ普及?
では、私の故郷の九州では、わさびがいつ普及したのだろうか。「九大演報 63,1990」の「九州におけるワサビの生産と流通」によれば、
九州地方のワサビ佐美唄の本格的な展開は、1955年以降の農林業政策によって、畳石式ワサビ田が開墾されてからである。
生産量は全般的に少ないが、宮崎県日南地方や熊本県球磨地方に産地が出来ている、大分県日田地方や佐賀県神埼地方では畑わさびが栽培されているとしているが、いずれも限定的なものだろう。
当然のことながら、昔ながらのわさび文化はなかったはずだ。
わさびの話ではないのだが、江戸風俗研究家宮・尾しげを氏の『すし物語』(昭和35年)に熊本県出身者としてはつらい一説が出てくる。
いやはや、申し訳ない限り。食文化の伝搬というのは、なかなか多様なものだ。
秋田に握りずしが伝わったのはいつか
ここまで、わさびの食習慣のひろがりを、握りずしの伝播に重ね合わせて考えてきた。
握りずしの全国的展開がいつ行われたか、については関東大震災とする説をよく見かけるが、大阪をのぞけば、各道府県にどのような広がり方をしたのか具体的なことは良く分からない。
たとえば、全国の古い電話番号帳を調べたらどうかとも思ったが、電話番号が載っている店ばかりではないかも知れないし、店名からだけでは江戸前なのか関西風なのかといった内容までは分からない。
すし券の運営を行っている全国すし商生活衛生同業組合連合会には全国の組合リストがあって、メールアドレスが公開されている県に、それぞれの県で最も古い握りずしの店をご存じないかと問合せのメールを送ったが、まったく返事をいただけないか、まれにあっても分からないという回答ばかりだった。
たとえば、秋田県ではどうだろうか?
ここは、名古屋の粉わさびメーカー金印が昭和25年に秋田の代理店が出来たことを記す際、品質に厳しい料理店(かっぽう)から認められたことを社史『わさびの花 ー金印わさび50年史ー』で特筆しているので印象的な土地だが、すし店については言及されていない。
食べログで秋田の「たつ福さん」のLoroさんのクチコミに
との一文をみつけた。逡巡していたのだが、1月の末に時間帯を見計らってお電話したところ、「昨年末に亡くなりました。そういうお話を出来る者はおりません」と、丁寧だがきっぱりとしたお返事が返ってきた。知らぬこととはいえ、本当に申し訳なく恐縮であった。
全国の老舗すし店をしらみつぶしに電話していくことは、なかなか難しい。もし、これをお読みくださった方で、地方都市で最も古い握りずしの店をご存じあれば教えていただきたい。現存のお店はもちろん、文献上の記録であってもありがたい。
ちなみに、秋田市には「大阪鮨 花押」という店があり、場所柄北前船文化の影響かと思ったら、当代のご主人が東京の店で修業されたそうである。こちらは、快くお答えいただけた。
静岡ではいつから握りずしが始まったのか
では、わさびの供給さえ問題なければ握りずしが広がって行くのだろうか。それならば、静岡市には江戸時代から続く老舗すし屋があっても良いはずである。
しかしながら、現時点では市内に4店舗を構える入船鮨が、箸袋にも謳う通り、大正元年創業で最も古い。次が少し遅れて開業した松乃鮨で、こちらは初代のご主人がご健在。カウンターでゆっくり食事をしながら色々伺ってみたが、やはり大正時代のことになると、よく分からないのであった。
割烹、料亭のさしみは、いつからか?
もちろん、わさびを使うのはすし屋ばかりではない。料亭、割烹のお造りにもわさびが欠かせない。
握りずしは東から西へと広がったが、日本料理の名店は関西から東京へやってきたというから、わさび文化はどこで交錯したのだろうか。この辺りもまだ、調べきれないことばかりだ。
さて、今回は握りずしの東京から大阪への広がり、わさび栽培の全国的なひろがりについて考察してきた。
わさびの歴史は、大正時代に大きな転換点を迎えた。それが、粉わさびの発明である。
次回はその誕生と普及の経緯を追いかけたい。