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もうひとつの秋のお月見。十三夜の楽しみ方

十三夜《じゅうさんや》

 お月見というと初めに十五夜が思い浮かびますが、秋にはもうひとつ、お月見のならわしがあるのをご存じですか。

 旧暦九月十三日の名月を眺める、十三夜のお月見のならわしも古くから日本にありました。十五夜と十三夜という、ふたつの名月を合わせて、二夜《ふたよ》の月と呼びます。

 今年の十三夜は、新暦の十月十五日です。

栗名月《くりめいげつ》

 十三夜は別名を、栗名月といいます。十五夜のまん丸いお月さまに比べると、十五夜の二日前にあたる、十三夜の月は、まだまん丸にはなりきらず、だ円の形をしています。満月よりやや欠けた十三夜の月が、栗の形に似ていることから、栗名月と呼ばれるようになったようです。

 栗ごはんからモンブランまで、秋の味覚に欠かせない栗ですが、じつは昔から、食料として重宝されてきました。はるか昔の縄文時代には、クルミやトチノミ、ドングリなどとともに、栗が主食だっただろうと言われています。

 でんぷんが豊富な栗は、ごはんやパンのように、体を動かすエネルギーになってくれます。それに加えて、ビタミンB1・B2・Cやカリウム、食物繊維などもバランスよくとれる、すぐれものです。

 そのうえ縄文時代には、栗の大木を柱に使って、大きな六本柱の建物を建てていた跡まで見つかっています。人間の暮らしに欠かせない衣食住のうち、食でも、住でも、栗は大事な役割を果たしてきました。

 そんな栗の収穫時期に夜空にのぼる、栗によく似た十三夜は、実りをもたらす豊穣のシンボルだったのではないでしょうか。十三夜のお月見では、収穫に感謝して、栗をお供えします。

豆名月《まめめいげつ》

 十三夜の別名は、ほかにもあります。ちょうど大豆の収穫の時期なので、豆名月とも呼ばれます。十三夜の月の形が、豆の形に似ていると思った昔の人もいたのではないでしょうか。

 しょうゆ、みそ、とうふ⋯⋯など、大豆からつくられるものはたくさんあります。大豆って、私たちの食卓になくてはならないもの。豆は、米、麦、アワ、ヒエ(またはキビ)とともに、五つの大切な作物という意味で、五穀《ごこく》のひとつに数えられています。

 五穀のひとつである大豆の豊作に感謝する意味も、十三夜のお月見にはあるようです。

 ちなみに、まん丸い十五夜は、まん丸い里芋に似ていることから、芋名月《いもめいげつ》とも呼ばれます。

月見飾り

 お月見をするときは、お月さまの見える縁側(窓辺などでも)に、お供えものをしつらえます。

 三方《さんぽう》(お供えのときに使う台)に奉書紙《ほうしょし》をしいて、その上に月見団子を盛りつけます。お団子の数は、地方や家によってさまざまでしょうが、十三夜なので13個ならべる、ともいわれます。

 ちょうどその時期に旬が訪れる、栗や大豆をはじめとする秋の収穫もお供えします。

 月の出る方角に正面を向けて、月から見て上座にあたる左に飾るのは、秋の収穫です。そして右には、月見団子を飾ります。収穫に感謝する意味を込めているので、自然がもたらしてくれた作物を上座に置くのがよいとされます。

片月見《かたつきみ》

 昔は、旧暦八月十五日の、十五夜を眺めたら、翌月に十三夜のお月見もするのが風流とされていたようです。もし十三夜のお月見を忘れると、片月見といって(片見月《かたみつき》とも)野暮と見なされたとか。

 十五夜をともに眺めた二人が、次の十三夜にも一緒にお月見しましょう、と約束した恋のジンクスでもあったようです。

十三夜は、無双の名月

 十五夜のお月見は、古来中国や朝鮮などの風習にも見られますが、十三夜のならわしのほうは、どうやら日本独自のようです。

 いつからはじまったのかは定かではありませんが、平安時代の宮中には十三夜を眺める文化がありました。平安中期の延喜十九年(西暦919年)の記録に、宇多法皇が十三夜の宴をしたと記されています。

 その十三夜と宇多法皇の話は、さらに平安後期の保延元年(西暦1135年)九月十三日に書かれた貴族の日記に登場します。

 その夜は天気に恵まれ、月見日和だったようです。〈かつて宇多法皇《うだほうおう》という人が「この夜の月は無双の美しさだ」とほめたたえたことから、十三夜が名月とされるようになった〉という記述が、その日記に残っています。

季節の楽しみ

 十三夜のお月見は、ちょっぴり不思議な感じがします。

 栗名月や豆名月といって、とれたばかりの栗や大豆をお供えするのは、収穫祭の性格を持っているように思えます。その一方で、平安貴族がお月見の宴をひらいて風流を楽しむのは、すっかり宮廷文化になっています。

 では十三夜は、そもそも何からはじまったのでしょう? 「ありがとう」という、秋の収穫への感謝から起こったのでしょうか。「きれいだな」と、だ円の月に見とれる感性から生まれたのでしょうか。

 人間は、月や太陽に象徴される宇宙や世界、自然にたいする素朴な尊敬の気持ちを、太古の時代から抱いてきたのではないかと思います。自然の恵みへの感謝は、きっと古くからあったことでしょう。

 月は光です。真っ暗な夜を照らしだす月光は、電気のない時代にはなおさらかけがえなく、心まで明るませたのではないかと想像されます。それゆえに美を感じたのではないでしょうか。夜空に浮かぶ月に美しさを発見する心というのも、やはり古くからあるものに思われます。

 自然に思いをはせるとき、美しさというものの芯にふれることもあるのかもしれません。恵みに感謝する気持ちと、美を愛でる気持ちは、ふたつでひとつなのかもしれません。

参考文献:白井明大『日本の七十二候を楽しむ ─旧暦のある暮らし─ 増補新装版』(絵・有賀一広、KADOKAWA)、同『暮らしのならわし十二か月』(絵・有賀一広、飛鳥新社)

写真:PIXTA

【プロフィール】
白井明大

詩人。1970年生まれ。詩集に『心を縫う』(詩学社)、『生きようと生きるほうへ』(思潮社、第25回丸山豊記念現代詩賞)など。『日本の七十二侯を楽しむ』(増補新装版、絵・有賀一広、KADOKAWA)が静かな旧暦ブームを呼んでベストセラーに。季節のうたを綴った絵本『えほん七十二候はるなつあきふゆめぐるぐる』(絵・くぼあやこ、講談社)や、春夏秋冬の童謡をたどる『歌声は贈りもの』(絵・辻恵子、歌・村松稔之、福音館書店)、詩画集『いまきみがきみであることを』(画・カシワイ、書肆侃々房)、など著書多数。近著に、憲法の前文などを詩訳した『日本の憲法 最初の話』(KADOKAWA)、絵本『わたしは きめた 日本の憲法 最初の話』(絵・阿部海太、ほるぷ出版)